二 蔦屋重三郎の訃報
六月四日、朝。驚きもした。版元の一人、耕書堂の蔦重(蔦屋重三郎、戯作者、狂歌師名・蔦の唐丸)が前日の夕方(寛政九年六月三日、陽暦一七九七年六月二七日)に亡くなったと聞く。
脚気を患っていると医者仲間から聞いてはいたが、まさかそれほどに病が重いとは思ってもいなかった。午後にも彼が所(店)に顔を出さねばなるまい。
彼ほど江戸市民の心根を計り、時に合った書籍や絵の版を重ねて来た人物は居なかったろう。寛政二年だったか、蘭学階梯の再版を是非に吾の所にと言って来たのも時の世の流れを読み込んでのものだった。
今や江戸市中に喜多川歌麿や山東京伝を手元に抱えて育て上げた版元と知らない者は居ない。東洲斎写楽の大首絵をもって江戸市民を大いに賑わしたお方だ。
彼の死を聞いて思うは、初めて源内(平賀源内)先生のエレキテルを体験したあの越後屋の御座敷だ。参加した者は恐々エレキテルを体験したいがために、輪になって互いに手を握り合った。
ビビッと来たときた。皆々が一斉に手を放し、胸の前に両手を突き出したのだ。しかも、誰もが驚いて目ん玉をひん剥いていた。越後屋の主人も、その傍に座ったすまし顔だった姫方もあの絵のごとき有様だった。東洲斎写楽の「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」の絵図と同じだった。その大首絵を見たのがニ、三年前だったか、昨日の事のように思われる。
白河侯の奢侈禁止を受けて蔦重は一時勢いを失った。だけど、彼がその後に言いもしたあの東西、東西写楽蔵、しゃらくせー、しゃらくせーは江戸っ子の最後っ屁、決まり文句にすらなったのだ。
今の世の商人隆盛を見ずして奢侈禁止、倹約、倹約のもの言いに、しゃらくせーとは反骨精神の旺盛な方だったと思う。合掌。
(蔦屋重三郎は江戸も浅草、正法寺に眠る。現代は墓所跡の碑のみ)
[付記]:この小説のこの場面を書いたのは昨年の夏だったでしょう。まさかNHK「べらぼう」で蔦屋重三郎が描かれるとは思ってもいなかったことでした。今はそのテレビ画面の中に江戸の当時の街並み、人々の生活様式、言葉等々の再現を見る、聞く思いで拝見しております。こんな見方もあるのかなと不思議な体験をしております。
吉原大門の傍で兄の店を手伝い貸本屋等から身を起こした蔦重です。吉原細見帳、黄表紙、浮世絵などの出版は誰しも知るところでしょうけれども、蔦重の出版に大槻玄沢の「蘭学階梯」があるのだと何処かで出てこないかなと思ったりもしています。