オ 墨屋多四郎が店

「今度は、日本橋も三丁目にて書道具一切を(あきな)っている墨屋多四郎(すみやたしろう)殿が所に寄る。父が長崎に((まなぶ)に)行くに、

寄って来もした藤七殿共々東海道を一緒に下った御仁じゃ。

 この江戸で生活が出来るまでになったと、大和(奈良)の田舎に在った母親と弟御夫妻を迎えに行くとて伊勢(いせの)(くに)亀山(かめやま)関宿(せきのしゅく)まで同行した。

 吾が筆や墨、紙等を買い求めるに今も何かとお世話になっておる。其方もこれからに必要な物はお富やお京等を頼らず、(おのれ)が足を運ぶが良い。

 多四郎殿にはこの世の処世術を学ぶこととても多いぞ。吾らと同じに何度か火事に有ってもいる。だが、その度に今の土地で再起しておる。

 商売には築き上げた人の信用が一番大事。常に顧客の知る店に在らねばならぬとて、被災してもその場を離れず地元を大事にして来た御仁じゃ」

 頷き、吾の顔をみる陽之助だ。商家の街並みが隙間なく続く。見慣れた景色ではあっても昼間と夜とではこうも違うか。灯が入った商家が薄暗闇の中で一段と大きく息をしているようにも見える。

 また、先に目を遣れば、入り口の戸に酒、めしと大書し、それを知らせる小旗が軒に揺れている。旗の誘いが小粋に見えるはこの時刻(とき)か。

 七つ半(午後五時)も過ぎたか、多四郎殿が店先の行灯(あんどん)にも灯が入っていた。書、絵道具一般と浮き出ている。以前には「絵」が無かった気がしたが・・・。

 ここでもまた大きめの暖簾(のれん)を分けた。途端に店の灯りに目が眩しくもある。驚きもした。店の中一面に所狭しと並んでいた筆から硯、紙、文鎮等々書道具一式が、今は店の中の右側に有る棚という棚に整然と置かれてある。

 棚と棚とのど真ん中に四尺もあろう大筆が壁にぶら下がっている。穂先の丸とて一尺も有りそうだ。この大筆は前にも見た。店の看板を語るものだとかつて聞きもした。

 驚いたは左側の壁に沿ってある棚に並べられた商品だ。大小の筆に小皿の大小が並べば、水差しにも似たもの、いや水差しか?。棚に並べられた幾つもの小壜(こびん)、油紙や普通紙、布に包まれた物までが並んでいる。良くに見ると、棚に並ぶその商品の一つ一つに名が記されてある。

 店の正面に据えられた帳場から降りて来た多四郎殿は、挨拶もそこそこに新しい棚の商品の説明を始めた。

「店の改装が無事に済みましての。凡そ二月(ふたつき)ばかり掛かりました。

 やっとに錦絵を描く諸道具一式もまた揃えることが出来ました。

 この商売始めるにも版元、絵師等々の皆々様に入り込む、商売を許して貰うに骨を折りました。安い頭なれども何度頭を下げたことか。

 それからに商品の手配、何から何まで勉強、勉強でした。

 今のご時世、昔に比べたら長屋の子等でさえ文字、算術等を習うことの出来るご時世に御座います。

 その書道具一般から、時の流れを見て浮世絵等絵を描く諸道具一式もまた商いの対象に手を広げさせて頂きました」

 頷きもした。陽之助共々改めて店の中をぐるりと見渡した。店全体が前よりも広くもなっていた。 

「この商売に大槻様は遠いと思いなさるな。司馬様(司馬江漢)も石川様(石川大浪)も市川様(市川岳山)等も大槻様のお側に 御座いましょう。

 絵を書くに筆、墨、硯、墨つぼ、紙ばかりに御座いません。絵を良くする(描こうとする)お方は必ず彩色絵図を物にしたくなるものでございます。

 大槻様には是非に、司馬様等に吾が店を御贔屓(ごひいき)下さるよう宣伝して下され。宜しくお願い致します」

 聞きながらも、目はまた棚に並ぶ品々に行く。

「浮世絵も歌舞伎(役者)絵も、また相撲絵も今や江戸の市民に大人気で御座います。この先ますます浮世絵、錦絵は隆盛で御座いましょう。

 特別な物を除けば、凡そお蕎麦一杯(二八蕎麦、十六文)の()で大概の絵は買える(当時、浮世絵一枚二十文、現代にして約四百円)のですから人気が出無いハズが御座いません。

 百琳宗(たわらやそう)()をご存知ですか。以前は、勝川(かつかわ)(しゅん)(ろう)という名にて浮世絵を物にしてございましたが、今は琳派(りんぱ)に移って百琳宗(たわらやそう)()とも北斎宗(ほくさいそう)()(後の葛飾北斎)とも名を語り、大胆な構図の絵を描いて御座います。

 何が有って勝川派から俵屋派一門に属したか存じませぬが、彼の見事な絵はきっとに人気になりましょう。ええ、なります。吾の好きな絵で御座いますな。

 この店は絵をお描きになる皆様方にも大いにご愛顧いただければと願っています」

 己で言って、お店の中を改めて見渡した多四郎殿だ。満足感が表情に出ている。釣られて吾も陽之助もまたまた店内を見渡した。

「錦絵を描くための絵具は本草学にも似てございます。

 何しろお薬同様に植物と鉱物とに大きく分けられるのですから。

 例えば、その(たな)本紅(ほんもみ)とあるは紅花(べにばな)から抽出された赤で、その隣にある赤は鉛丹(えんたん)と言い、(なまり)から造られた赤に御座います。

植物からなるものは染料、鉱物からなるものは顔料とも言います。水にも油にも溶けないのが顔料に御座います。

 黄色の染料はウコンの根や茎から、鉱物は(ゆう)(おう)から、また、青の色は露草の花弁を絞ってその汁を煮詰めて造られた物、藍葉を発酵させた物。顔料の方は酸塩(さんえん)からになります。

 顔料には人の肌に害のある物も多くございますれば、その取扱いに十分な注意が必要に御座います」

 帰り際に、店にお顔を出した多四郎殿の弟殿に挨拶を受けた。お店を手伝っていると知ってもいる。改めて彼にも陽之助を紹介させて貰った。

 この先、弟殿にも親子共々お世話になるだろうと思いながらに、多四郎殿との長崎行きの道中の事どもも二、三思い出された。

弟夫妻と一緒に田舎から出てきた御母堂がお亡くなりになって何年になるかと数えた。

 

[付記];先月も御読み頂き有難う御座いました。野暮な句に反応してか昨日は普段より御読み下さる方が増えても御座いました。

 週1回の体力づくりのための散歩道凡そ往復6キロ。表通りに出れば、我が家から1キロ先に業務スーパーがあります。米の値段を見て回りました。驚きですね。前回に見たよりも値が上がっているのです。外よりも安いと言われるこのスーパーでさえこうなのですから、政府の備蓄米放出は何なんだと思うは小生ばかりではないでしょう。

 妻が、代わりに「もち米」が売れていると言っていましたが、確かに同じ5キロでも「もち米の方の安い」のです。

 夕方のニュースには、今後、アメリカ産のコメの輸入が如何のこうのとありました。一時のコメの高値で日本のコメ文化が崩壊していくのでしょうか。妻の工夫、努力とはいえ現実に小生の食卓も、パン、うどん、蕎麦、パスタ等の機会が増えております。

 昨夕は、お好み焼きです。チビチビやりながらお腹一杯、満足していますが、小生でさえこの先、日本がこれで良いのかと思いもします。

 (GWに一句)

  浮かれ世に 哀しみ思う 阿保かいな     (河童子)

  

 生まれが岩手県です。県内いたるところに河童伝説がある所で小生の田舎を流れる川にも「河童渕(ぶち)」とよばれている所があります。