「倅の陽之助をお連れしました。

 これからに蘭学を学ばせようと思ってに御座います。

 吾共々先生のご教授にありたいと、改めてご挨拶に連れて参りました」

其方(そなた)()る。また、其方の回りに優れた長崎通詞も弟子も居よう。

 年齢(とし)の行った吾の出る幕ではあるまい。

 のう、倅殿、陽之助殿と言ったか。

 御父上に学ぶが良い。(御父上の)傍に居る皆々に学ぶが良い。

 心して当たれば、必ずに事を成すことも出来よう」

 不意に声を掛けられて驚いた陽だ。言葉を飲み込んでしまったようだ。慌てて、大槻陽之助に御座いますと頭を畳に着けるほどに下げた。

 首を縦に頷く先生だ。

「それにしても、改めて大きくなったなと思う。頭を上げなされ。

 倅殿を初めてに見たは、奥方に手を引かれた三歳の子ではなかったかの」

 言いながらに目を陽に向ける。先生は何を思っているのだろう。先生の笑い顔などそうそうに見れるものではない。だが、先生が自分のお子を語った時の破顔を思い出した。

「好きな富士(山)にあやかって、その字の通り長女を富士子、次女を峰子としたよ。

 だが、富士子は其方が江戸に来る前、明和も終わりの年、((みずのえ)(たつ)、一七二二年)に亡くなった。

 今に倅が(とおる)、娘が峰子よ」

 その子息(とおる)殿を亡くし、翌年に奥方様、珉子(たまこ)様を失い、失意の中にある先生を励ましたは外でもない工藤様が一番だったろう。

良沢の後を継ぐ、前野家の後を継ぐ人を探さねば、養嗣子を見つけねばなるまいと先生を励まし、奥方様のお亡くなりになったその年の暮(寛政四年の暮)に何かと奔走した工藤様だった。

「初めてに見るかの?。此方(こなた)は、倅(養子、(しん)(あん))の嫁ぞ。

 吾の世話も良くにして呉れる、

 出は()が娘、峰子が夫、小島春庵殿に繋がる縁故の者ぞ。

 倅共々宜しくな」

 

 先生も七十五、六(歳)なるか、お年齢を召したなと思いもする。しかし、床にある先生など初めてだ。その衝撃が吾には大きい。「倅共々宜しくな」のあの言葉に、これから先を思う先生の心情が表れていた気がする。

 工藤様のお陰で、仙台藩領内にある塩釜神社の神主藤塚(ふじつか)式部(しきぶ)(とも)(あき)殿が三男を養子に迎えてもう四年にもなるか。先生が宅で、工藤様から初めて(しん)(あん)殿の紹介を受けたときのことを今も覚えている。素直そうで、口数の少ない東北の青年だった。

 それだけに蘭学にも医学にも精進する若者と期待した。だが、勉学よりも先に江戸の(ちまた)の誘惑に染まったのが大きな誤りだ。

江戸は今の世に何でもござる、有ると言っても過言では無かろう。勉学するに書籍の多いのにも、また優れた先人、指導者を得るに最も恵まれた環境とも言えよう。

 だが、享楽事も多かればその誘惑とて多いのだ。それ故、身を亡ぼす者とて多い。

 妻帯によって頣庵殿の腰が定まり、真剣に医学医術を習得して独り立ちして呉れればと思う。それが後を継ぐ前野家の養嗣子に期待されてもいる事だ。

 そこまで思いが行って、ふと、お岩殿も小島春庵殿が縁故と言う先生のお言葉を思い出した。幕府(徳川幕府)奥医師村田長庵(昌和)殿こそ小島春庵殿が養父だ。工藤様と法眼様(奥医師、桂川甫周)、良沢先生のお三方のこれまでの関係を思うと、先生を(おもんばか)って工藤様と法眼様とがお岩殿を世話したのではないかと思う。

 頣庵殿、良からぬ評判を己で消しなされ、真摯に医学医術に面と向かいなされ、(とおる)殿の後を継ぐ前野家の立派な養嗣子になりなされ、心の中で呼びかけた。吾に出来ることは何でも手伝いもしよう。

 黙って足を進める陽之助の横顔を見た。陽の人生には何が待っていようか。医学医術の事は工藤様の手も借りよう、だが、翻訳の事は確かに先生(前野良沢)のおっしゃる通り吾や身近に居る仲間に委ねよう、そう決めた。