イ 工藤平助が宅
「間もなくに工藤様の屋敷ぞ、先ほどと同じように挨拶を良くにな。
(工藤様の)お顔は存じ上げていよう?」
「はい。確かこの方だなと朧気ながらでございますけども覚えが御座います。
御父上が所に何度か足をお運びになっていた方に御座いましょう」
「この江戸に来て、吾が父とも思っているお方だ。
それほどに、何かとお世話を頂いておる。同じ仙台藩に身を置く方ぞ。
今後、しっかりと覚え置くが良い」
少しばかりの心得を口にして、門を潜った。九つ半(午後一時)にもなろうか。
「ご無沙汰しております。何のお変りも御座いませんか?
今日は、倅の陽之助を連れてございます」
陽は落ち着いた様子で続いた。
「大槻陽之助に御座います。父からは度々に工藤様の事をお聞かせ頂いております。
今後、宜しくお願い致します」
「うん。暫く見ぬうちに大きくなったの。訪ねたときに其方を見かけてはおったが・・・。
子の育つは早いものよの。とうに親の背丈を超えたか?。何歳になる?」
「はい。五尺一寸(約一五三センチ)。今年で十三(歳)になります。」
そこで胸を張らずも良い。だが、誇らしげに己の胸を軽く叩き、笑顔を作った陽だ。
「漢学、国学の基礎は、吾もまた師と仰ぎ学んで居る葛西因是殿(新山健蔵、儒学者、文書家、字は休文。林述斎が門人)にお願いして面倒を見て頂いてきたところでございますが、そろそろに医学医術も翻訳も学ばせねば、教えねばと思って御座います。
是非に工藤様の所に通わせたいと、連れても参りました」
(蘭語を訳読し、漢文に仕立て上げるまでが当時の蘭学者の言う翻訳である)
「ハハハ、何を言う。阿蘭陀医術を学に外科は其方、内科は明卿や安岡(安岡玄真)が傍におるではないか。
玄白が所(天真楼)に通わずとも、また、吾の所に通わずとも倅殿が学ぶ環境は整っていよう」
「いえ、親子で子弟の関係はとかくに甘えが出るもの、また、甘やかした判断もするもので御座います。
獅子は可愛い子を敢えて谷に落とすとか。世に出て、倅が自ら這い上がるほどの経験も必要と思っても居りますれば、是非に工藤様にお願いしたき所で御座います」
「(陽之助を)見たときにはこんなにも大きくなったか、前途洋々だなと思いもしたが、この老い先短い吾とて若い者を見るとまだまだに頑張らねばと思いもする。
其方の御父上の活躍にはほとほと感心しても居る。だがの、六十余年を生きてきたことだけは玄沢殿に負けぬ」
陽之助に語りながら、語尾を吾に振り分けた。笑い顔でもある。
「それでの、医者としての四十年にわたる経験がある故、去年の夏からコツコツと秘かに書き溜めてきた。
後に続く者(医者)の指南書の一つになればと発刊した物よ。
桑原殿に少し手を借りたが、貰ってくれるか?」
表紙には「救瘟袖暦」とある。
「勿体なきお言葉に御座います。
江戸に来て凡そ二十年。今に工藤様を吾が父とも思って御座います。
是非にもこの書を吾の指南書の一つに備えさせて頂きます」
「内容は熱病の分類、治療法とその効能の是非を記してある」
「はい、家に帰って、親子共々じっくりと拝見させて頂きます。
ところで今、桑原殿が事を申されましたか。桑原(隆朝)殿のご息女が浅草の天文方に出入りしている伊能忠敬殿の奥方になられたとご存知ですか」
「うん、知っておる。二、三年前になるかの。
堀田殿の仲立ちで下総も佐原の名主に嫁いだと桑原殿にお聞きした。
その名主が伊能忠敬殿とか言ったかの。
伊能殿は五十の年齢を境に、家業を家督に譲ってこの江戸に来た。
蘭花(前野良沢)の所に(蘭語の)翻訳を習いに来ている天文方の高橋至時殿とか言ったかの、その御仁の弟子になって、今に天文観測等を習っていると聞いておる。
だが、気の毒に、嫁に行った娘子が先頃に亡くなったと聞きもした。
娘が亡くなったとて義父にも当たればと、この正月も伊能殿がそっと挨拶に来たと言っておった。それが如何かしたか?」
「はい。伊能殿は高橋殿、あっ、いや、同じ天文方にある羽間重富殿、
前にもお話したあの橋本宗吉を小石元俊殿と共に大坂から送り出した御仁のご指導を受けながら、今に住まいの深川の黒江町に己の算段(私費)で天体観測器を整備しているとお聞きしました。
掛かる費用が一千両とお聞きして驚いたところに御座います。大した弟子で御座いますな。吾らは翻訳が出来たとてその出版費用に四苦八苦して御座いますのに・・・。また、弟子に碌な支援も出来ずに居りますのに」
陽之助を前にして愚痴になってしまった。咄嗟に反省もした。だが、言いながらに吾の重訂解体新書の発刊の事も、稲村(三伯)のハルマ和解発刊に係る資金繰りの事も頭に浮かんだのは事実だ。
「他人のそれ(資金繰り)を羨んでも仕方あるまい。
弟子は・・のう。陽之助殿を医者に仕立てると?」
「この先どうなるか分かりませぬが、そろそろに医学医術のイロハを教えていかねばと心して御座います」
「其方の父は、翻訳、書き物で名を一番に挙げておるが、医学医術の基礎を確かに覚えておればこそぞ。
(其方の)傍に医者が多く居るでの、(医学医術を)学が良い。
医術は世のため他人のためになることぞ」
「はい。その様に心して御座います。
是非に弟子入りをお認め下さい」
陽之助とて工藤様に正面から顔を見せたは初めてになる。その語る言葉に吾がドキドキハラハラするは親バカか。
陽に微笑みを返した工藤様が、吾に目を移して言う。
「住まいの方はどうなっておる?」
「はい、お陰様で来月(三月)の末には出来上がる予定に御座います。
今度は木挽町になります。浦上松次郎殿が土地にて(京橋)五丁目橋通りの広小路、南側になります。
転居、引越し、落ち着いたれば、その節に是非にお出かけ下さい」
(寛政九年四月一日、大槻玄沢は京橋木挽町、浦上松次郎が借地に家屋を新築。引っ越した。(官途要録))
悲しきことも喜びも重なるときは重なるものだ。間もなくに家も出来上がる。出がけに聞いた、お子が出来た、との純の報告を嬉しく思い出した。
歩きながら、吾が家にもやっとに春が来るかと思いもする。純の言葉が当たりなら出産は来年も一月になろう。
まだ年が明けて間もないのだ。先の年の事を言えば鬼が笑うと言うが、無事に元気な子が生まれればと期待もする。