第十八章 寛政九年
一 新年の挨拶まわり
ア 杉田玄白が宅
寛政九年(一七九七年)。吾もまた世間で言う前厄の年齢になるか(玄沢四十、四十一歳)。家の者皆が言うように増上寺にでも厄払いをしに行かねばなるまい。
暮の火事騒ぎは今も身に堪えている。だが、一家皆が無事、集めた洋書が皆無事、新年を迎えられたとあれば不幸中の幸いだ。
藩から屋敷の建築に掛かる資金をお借りすることも出来たのだ。新しい家にこそ火除けの祈り、魔除けの御札が必要だろう。
陽之助のために一部屋を用意するが、この江戸で年若くして一部屋を貰うなぞ贅沢と言えば贅沢なことだ。思うほどに勉強にしてくれればよいが、陽(陽之助)の前途をこれほどに思うは今年が初めてかも知れぬ。
また、早々に、かねて先生と士業殿(伯元)から話のあった若狭小浜藩酒井侯の家士、市瀬源六吉重殿の娘子、純、三十六(歳)との再婚を藩に報告した。
(官途要録には増山河内守家中斎藤定意殿の叔母との縁組とのみある。増山河内守とは伊勢長嶋藩第五代藩主、増山正賢の事で、「酒造統制違反」で大坂を追われた木村兼葭堂を自領地に招き保護したことで知られている。)
四度目の婚儀ともあれば喜びばかりではない。吾にも陽にもまた使用人にも良き女人であれと思うだけでなく、純自身が無病息災で有らねばならぬ。
喜んでもらえる縁組だったと思えるようにしていかなければならぬと思う。焦ることでも無い、段々に睦まじき仲を築いていければいい。
「どうだ。足りぬか。何かと金子のいることばかりだったからの。
何時もの年より考えに考えてその額にした」
「先生。勿体ねゃ(勿体無い)お言葉だんべ(でしょう)。
俺は小袋(お年玉の祝儀袋)を見たらお断りしようと思っていただ。
だども御出すす(し)たものを断ん(る)のも何だべど思って貰いやすた(貰いました)。有難う御座ゃます。
今年も頑張んべー。先生、何時までも元気で居でけろ」
「先生。お京の言葉に騙されてはいけませんよ。
これで、気に入っていた役者絵は買えないと先に言っていたのですから」
お富の告げ口が無くとも想像がつく。お京も江戸に来て何年になるかと思いもした。
だけど、時折混じるお京のズーズー弁を聞くと何故か憎めない。今年も頑張んべーと己自身思いもするのだ。
慣れぬ借家住まいに家具の置き場所、己の仕事場の確保、整理整頓など遣ることも多く、長くも感じた一月だ。それからに、やっと自分でも挨拶周りをする気になった。
陽之助を連れて他人様の家を訪ねるは初めてのことだ。新年(旧正月、二月)とても、喪中にもなる年明けとて先生が宅は静かな物だ。何時もの年に見る松飾も注連飾りも無い。
(天真)楼に出かけて不在かもと思いながらに門を潜った。
応対に出たお扇殿はお顔も身体全体もふっくらとして若奥様らしい落ち着きにある。
「先生はご在宅かの?」
「はい。父は居ります。
主人は(伯元)楼の方に御座いますけど・・・、こちらの方は?・・」
「大槻陽之助で御座います。何時も父がお世話頂き有難う御座います」
紹介するよりも、先に陽の言葉だ。今日の行先は先生宅に工藤様の所、足を延ばして良沢先生の所、それに廻れたら父が懇意にしている芝の薬売り、日野屋藤七殿が所に行く、戻って日本橋も南。三丁目に書道具一切を商っている墨屋多四郎殿が所に寄ると事前に話してはあるものの、挨拶の仕方は一切言っても居なかった。
成長したな、大きくなったなと思うは親バカかも知れぬ。胸を張って堂々と自己紹介する陽之助に、内心、よくぞ言ったと思う。
「お元気に御座いましたか。今年も宜しくにお願い致します。
今日は倅共々、暮のお礼とご挨拶にとお伺いさせて頂きました」
「大きくなったのー。先に見たは二、三年も前になるか。父の背丈は疾うに超えもしたろう?。
如何じゃ、父上は優しかろう?」
「はい。皆様の御芳志があってこそ新しい家も出来る。学問とて同じ。皆様の教えがあってこそ学は成り立つ。
何事も感謝の気持ちを忘れるな、と父の教えに御座います」
二日前の夜、何かお手伝いすることが御座いますかと書斎を覗いた陽だ。雑談の上で、軽い気持ちで口にした吾の言葉を先生の前で語る。吾の方が顔を赤らめもした。
「外治(外科)は父(玄沢)、内治は明卿(宇田川玄随)。
翻訳が仕事の見本に山村才助、稲村三伯等が其方の傍に居るでの。
少しづつ習い、また、見習って行くがよい」
語り、笑みを見せながら一人頷く先生だ。
「はい」
陽之助の返事が良い。
他人の教えを受ける方が良い、親子では甘えも出る。それを避けねば・・・と思っていただけに、陽の天真楼入門の許しを得ようとの秘かな計画を口にしにくくもなった。
「先生の政事に掛かる情報とて、何か変わったことが御座いましょうか?」
「うん。知っても居よう。御上は新たに西洋の天文学を取り入れた暦を造ろうとしておる。
今年中に何としても造り終え、来年から寛政が暦を世に広めたいらしい。
それでだ、聞いて驚きもしたよ。何と、あの浅草の新しい天文台、天体観測機器製作と備え付けに一千両と言うではないか。掛かる経費を聞いて驚きもした。
御上もよくぞ羽間殿の提案を聞いたものぞ。それで御上の並々ならぬ決意も知れもしたが、羽間殿は同じような機器を大坂に、私費で己が蔵のてっぺんに先に備え付けて居ると言うではないか。
ただ、ただ驚いた」
そのことなれば先に耳にしておる。だけど、その後の情報に聞き入った。
「この秋にと言うから神無月(十月)にもなるかの。
江戸市中のみならず日本中に新暦を周知し、僅かな期間を置いて寛政十年からは寛政暦を使うのだそうじゃ」
雨の日も大風の吹く日にも夜空を見上げる高橋殿、羽間殿の姿とて思い浮かんだ。好きでも無ければ続かぬ仕事だ。羽間殿の謙遜した、市井の一介の天文好きに過ぎない道楽者の吾を・・・の言葉が思い出された。
お断りもしたが、蕎麦を茹でたとて熱い丼蕎麦を親子で御馳走になった。大半の油揚げも薬味の刻み葱も美味しかった。
先生の歯の加減が良くないのだと語るお扇殿の言葉が少し気になった。