お京がお茶を淹れ直して来ましたと顔を見せた。外にお盆に何もない。お富なら妻と計らずも菓子の一つも用意したろうにと思う。

 お富は何処ぞに出かけているのか・・。お京が襖を占めると、語りだした。

「大槻様はご存知ですか?、天文方は若年寄り様の支配にあると先に申し上げましたが、その職にある堀田正敦様・・・」

「勿論。堀田様は吾が仙台藩、幼い藩主の後見役に御座る。

 吾が幼い御屋形様の健康を伺うに、養祖母になる観心院様共々お側に控え居ることもござる」

「その堀田様の推薦も御座いましたれば、前にもお話した伊能(忠敬)殿、今は吾がもっぱら彼の手伝いを頂いておる所に御座います。

 この一年余、彼の学ばんとする姿勢にはほとほと感心させられました。教えているのが高橋至時殿とはいえ、師匠同様、天体の観測にこの地球の大きさにも大いに関心を示しております。今に測量等も勉強しております。

 そして、此度(こたび)に吾が感服したは、とうとう自宅に天体観測機器を整備する、奥方の手も借りるとのことでございます」

「自宅に天体観測機器?」

「はい。吾も大坂でひち(・・)蔵(質蔵)のてっぺん(・・・・)に機器を備えて居ればそのことには驚きませんが、掛かる整備費に御座います。

この一年余で江戸は物価が高いと分かりもしました。大工等に掛かる工作費用、手間賃、後の維持経費は人様に言うは(はばか)れるところに御座います。

 改めて身辺の事どもを詳しくお聞きました。伊能殿が下総も佐原(現、千葉県香取市)で名主もしていたことは先に大槻様にお話ししたところです。稼業を御子息に譲りはったこともお話したかと思います。

 本人は謙遜して御座いましたけれども、聞けば大した蓄財に御座います。観測機器等を整備するに費用の方は凡そ一千両を要します。されど、心配要りません。

 酒造り、賃貸している田畑や出来た米の上がり、運搬業等々で得もした蓄財から掛かる費用を用立てるとお聞きしました。

(伊能忠敬の当時の蓄財は、現代に換算して三十億円余と伝わる)

 今に伊能殿が住む深川の黒江町とか言う所に吾の提案する垂揺球(すいようきゅう)()子午線(しごせん)()象限(しょうげん)()など観測機器の整備を進めてございます」

「言われた機器は如何様(いかよう)な物かの。全くの素人故、初に耳にする」

 蓄財は羨ましくもあるが、聞くことでもあるまい。

「ご無礼しましたな。垂揺球儀は振り子の振動回数を表示し、そこから時刻を求めることが出来ます」

「時刻を」

「はい。振り子の時計と言ったら理解も出来ましょうか。

 子午(線)儀は星たちの子午線を通過する時刻を測定するものでございます」

「子午線とは・・・」

「はい。地球は丸いと大槻様も理解がございますな」

 己の本の地球図を頭に描いた。司馬(司馬江漢)殿の地球図も思い出された。

「丸い地球を東西に走る子午線(緯度)と南北に交差して走る子午線がある(経度)とお考えなされ。

その線上を通過する星(恒星)たちの時刻を観測することで、己が今地球上の何処にあるか知ることが出来ます。

「えっ?、いやはや、お聞きしても良くには分かりかねる」

「一度お聞きになって天体、天文を理解できるとあれば吾らも苦労はしま()ん。

 象限(しょうげん)()四分(しふん)()とも言います。シブンを字にすれば四に分けるの字になります。

 字のごとしで(えん)の四分の一の扇形にした目盛りの附いた定規で御座います。主に恒星、星たちの地平線からの高度を測定するために使用します。

 観測は雨の日も風の日も雪の積もった日にも行わなければならず、一人では到底無理で御座います。

(吾が)大坂に在った時は麻田(剛立)殿、高橋(至時)殿に吾、他に手伝う者達が周りに居りました。

 そのことを伊能殿に言えば、奥方の手も借りる、天体に関心のある使用人の手も借りるとの事でした。

先の奥方(桑原(のぶ)、仙台藩医、二代目・桑原隆朝の娘)を夫婦生活も短かに亡くしたともお聞きして居れば心配にもなりますが・・・、その時はその時で、伊能殿にも考えが御座いましょう」

 暮の挨拶と言いながら、見舞金まで持参して態々(わざわざ)に来られた羽間殿に感謝する。質問もしたれば二度のお茶だけで良かったかと思いながら、玄関口まで見送りに出た。

 その姿が見えなくなると、天文方の仕事もつくづく大変なことだなと思う。

江戸言葉に時折混じる難波(なにわ)の言葉尻が今に耳に残る。

 

[付記]:明日(24日)から第十八章・寛政九年になります。今月もまたアクセス数(読者)が300を超えました。素人作家で

 すけれども、今後とも宜しくお願い致します。

  この4月末には全文を書き上げ脱稿するつもりでいましたけれど、大槻玄沢の交際範囲や事の広がりに驚きながら未だに文化二年の事どもを執筆しております。令和3年の4月から此の小説を書き出して丸四年になります。

 文献調査ともども、こんなになるとは思ってもいませんでした。別な事を書いて居れば外に何篇かの小説を完成させているのにと思ったりもしていますが、今は、自分が書かなかったら誰が大槻玄沢を書くのだ。初心に返って、誇れる故郷の歴史上の人物を今の世の子供たちに伝えよう、その思いでいます。

 お付き合いのほど、宜しくお願い致します。