第十七章 寛政八年

             一 結婚と離縁

 寛政八年(一七九六年)か。吾もまた今年に四十にして惑わずの年になるかと江戸の生活を振り返れば感慨深いものがある。

 正月を過ぎたばかりに番町の御薬園に伺った。遅くはなったが吾の新年の挨拶回りの一つに加えた。

(大黒屋)光太夫殿も磯吉殿も揃って在宅していたが、吾が来たと光太夫殿が磯吉に声を掛け、光太夫殿が家に吾も含め五人が揃った。

 新年を迎えるに家族、親類、知人等の多く集まるは何処の宅にあっても嬉しくもある。 

光太夫殿が妻は商人が娘でまだ十九(歳)と聞いた。新妻らしくキビキビと動く。

 祝言はこの家で行われたと聞き、連絡があれば吾も祝言に参加させていただいた、ご祝儀を届けたにと言えば、横から磯吉殿が、吾は嫁を貰ったばかり、ご祝儀はまだ間に合いますという。皆の笑いを誘った。

 そして、華奢(きゃしゃ)な身体つきながら鼻筋の通ったその妻を自慢した。年が同じと聞くから光太夫殿の妻より年齢(とし)が行っているだろう。後に、本当にお二人にご祝儀を届けねばなるまい。

 卓子てーぶる)に乗る料理とても一年前とは大分に違っている。見た目にも吾が想像していた以上に華やかだ。

 手作りの料理の味も確かだ。飲むほどに光太夫殿は、蘭学会の宴に出たことを話し出した。お役に立ちましたかと聞く。また、訪れる医者や本草を学ぶ者が今も多くいると言う。

 オロシヤの薬になる鉱石、植物にどんなものが有ったかと聞きに来るのだそうだ。その時に、大変お世話になったあの学者、キリロ・ラクスマンの事も、また、将軍、家斉公の御前(おんまえ)で名の出た淳庵先生(中川淳庵)、法眼様(桂川甫周)の事も話して聞かせると言う。

 オロシヤは日本よりも進んだ国、オロシヤとの交易等は必ず日本の裨益になる、その交易等を支援する人物がオロシヤ側にも居る。また、日本にも世界にも知られるほどの学者がいると、恩返しの意味も込めて語り聞かせると語った

 一刻(約二時間)はお世話になったろうか。酒と料理に舌鼓を打ちながらの時はアッと言う間だった。

お暇を告げるのも惜しかったが、二世帯の落ち着いた生活を目にして、こんなに嬉しいことは無い。お二人の前から着実に不幸な遭難の陰は薄れているように思う。

 何方(どなた)のお屋敷か分からぬままに、良かった良かったと思いながら番町の茂る杉木立の間を通り過ぎた。

 

 嬉しいこともあれば、悲しいこともあるは人の世の常だ。御薬園に伺ってからも四日経つ。玄白先生の堪忍袋の緒がとうとうに切れたのだろう。

 いや、去年の暮れに吾に話があった時、既に先生は決めてもいた事なのだろう。安岡が離縁された。

「このまま芝蘭堂には通わせて下さい。

 蘭学の勉強も医学の勉強も続けさせて下さい」

 頭を下げる玄真だ。ならば何故(なぜ)酒も女子も(つつし)まぬ、先生のお側に居るは最も恵まれた環境ではないか!と言いたくもなる。

なれど、行くところも無ければ吾の所に頼って来たと言うに、その言葉は無かろう。

 一緒に聞き()る稲村が言う。

「まずは何処ぞに、安岡殿が住まいを探してやらねば・・・」

 吾の所で面倒を見てはと言う意味合いが感じられる。だがそのような部屋とてない。仮に吾の所で世話をしていると知れれば先生に申し訳が立たない。

「若気の至りとばかりは言えぬぞ。

 稲村殿が言うように、何処ぞに、まずは住まいを探さねばの。

 吾の思いつく当てを探ってみよう。

 明卿はまだ其方が追い出されたと知るまい、連絡しても良いかの?」

 それを聞いて顔を上げた玄真だ。さすがに憔悴した顔だ。不精ひげが顎の辺りに伸びている。

昨夜(ゆうべ)も羽目を(はず)したか、家に帰らなんだかと聞いてもみたくなったが、それもまた鞭打つようなものだ。今更ながらに事の大きさを感じても居るらしい。

「黙ってはいても明卿に知れることぞ。

 先生の所からそのような連絡が先に行くやも知れぬ。

 稲村殿、申し訳ないが先生が宅に行って安岡が荷物を預かってきては呉れまいか。

 何ぞ聞かれもしよう。その時には、反省もしているが顔向け出来ぬ、顔も見せられぬとて頼まれもしたと言って下され。

 吾と安岡は何処ぞの長屋に住まいを探して来るゆえ、預かって来た荷物は大八車に乗せたままにして置いて下され」

 住まいが確保出来たところで、明卿が所に小者を(連絡に)走らせよう。驚くだろうけど、新しい住まいと引き続き吾の所で蘭語も医学も勉強を続けると知れば明卿はそれだけで安心もしよう。

 また、稲村が荷物を取りに来たと知れば、士業殿とて吾が差配と思いもしよう。先生とのことはまたに考えねばなるまい。

 

[付記]昨日(4月6日)第43回、ユニセフ・ラブウオーク中央大会に参加してきました。品川区高輪にあるユニセフ本部で受付を済ませ、小生は朝九時半にそこをスタートしました。コースは桜の名所で有名にもなっている目黒川の一地域を周遊するようになっていましたが、小生はそのコースの終わりに元の品川宿とあり、まだ歩いたことがが無い、江戸時代の品川宿の一端が知れるかと、その思いもあって参加しました。

 品川宿は、現代の北品川商店街の通りになります。綺麗に整備された街並み(商店)が並び、残念ながら、直ぐそばが海だったなどと江戸の時代を伺い知ることは出来ませんでした。そこに残る神社、仏閣だけが今も江戸の時代を彷彿させる物でした。

 また、目黒川には想い出があります。小生が東京都に勤務し、上下水道、清掃、交通の公営三局に、環境、建設の二局、計五局に掛る政策の調整を担当していた凡そ35年前の目黒川は、埼玉県内を通って葛飾区を流れる綾瀬川と共に都内でも1,2を争う有名などぶ川でした。悪臭漂い、泡の浮く見るに堪えない川でした。その改良のための方策も色々とありますが、何と言っても下水道設備の整備が一番の施策だったでしょう。

 今もどんよりとした川の水色でしたが散りもした桜の花びらが川面に浮かび、遊覧船が行きかい、水上バイクが幾つも走り回っている光景に、こうなってくれたかと感慨一塩でした。

   ユニセフのラブ・ウオーク大会は例年開催されているらしく、是非に機会があった参加して下さい。近くに品川区水族館もあり、親子共々楽しめる地域かと思いました。(歩行距離は、6,7キロです)