六 高橋至時と前野良沢
先生が宅を訪ねるに、潮の匂いがやがて波の音を聞かせる。
通ってからも何年になるかと思いながら松の枝が掛かる中津藩の門を潜った。
潮風にめげず、今年もまた松葉は青々と茂っている。
来るのが遅かったか、江戸に在ってこれほどの期間ご無沙汰していた時が有っただろうか。凡そ半年もご無沙汰していたかと反省する気にもなった。
「ご無沙汰いたしております。お元気に在られましたか。
此度は先生に見せるほどの物にも無いと思いながらも、出来たとあればお目にかけようとて持参いたしました。お納め下されば幸いです。
蘭語を学に、初学の者には蘭学階梯さえも理解しがたいと言われます。そこで、弟子の手も借りて、より一層江戸市民に分かり易く、親しみ易くと書き表した「蘭学佩觿」に御座います」
お女中がお盆に湯飲みを二つ持参した。先生にも吾にも差し出して、微笑んだお顔を見せると何も言わずに引き下がって行く。
先生のお顔にも似て居れば、次女の峰子殿だったかと思いもした。
品の良い、無駄のない所作は三年前に亡くなられた先生の奥方様にも似ている気がした。
湯飲みを手にして暫く待った。
冊子に目をやる先生に、大分に頭髪も少なくなりましたね、白髪も増えましたねと心で語りかけた。紙数も少なければ、目の前で一気に目をお通し下さった先生だ。
「吾の目の黒いうちに、これほどに蘭学が盛んになる世が来るとはのう、思っても居なかった。
其方のお陰ぞ」
冊子から目を離したお顔が微笑んでいる。とてもとても、吾の入門の申し出を惚けて何度もお断りしたあの古武士の面ではない。
「成るほどの。五十音、濁音、半濁音にしてABCDを並べ、「か」にも「Ka」「Ca」の書き表し方があるなど、知っていてもこのようにまとめてみようと思ってもみなかった。
解体新書の改訂に取り組むだけでも大変なのに、ご苦労な事じゃ。これさえあれば確かに蘭学入門の端緒になろう。江戸市民の興味もまたかなり引くと思う。
蘭学の普及を、今後とも宜しくにな。
ところで、知ってるか?、聞きもしたか?。先日に高橋至時なる御仁が訪ね来て入門させて欲しい、蘭語を教えて欲しいと言って来た。
なんでも正月(旧正月)明けそうそう(三月)に幕府から呼び出しがかかっての。この卯月(四月)に大坂から江戸に来たということじゃ。
今に、天文方の測量御用手伝いの身にあると申しておったが、代々大坂定番同心の家柄で、自身、大坂にあればその身にありもすると言っておった」
「高橋至時と?。初めてお耳にする名で御座いますな・・」
「大きな声で言えぬがの、今の暦(宝暦暦)は当てにならぬ。日食のあるを外してしまったとかで、その改正のために幕府に呼び出されたのだとか。
大阪では御上に何の縁も無ければ支援も無く、有志で天文の学に勤しんでいたらしい。
その中心人物が麻田剛立とか言う御仁で、御上の暦に無かった日食を見事に的中させたのだとか。
暦は農作業や商売、日々の生活の有り様から祭りの日々等までを計る基になるでの、その見直し、改正が必要と言っておった。
西洋の天文学を良く知るに蘭語の解読が是非にも必要と言う事じゃった。
聞けば何と、蘭語の基礎は其方の所に居った橋本宗吉に教えて貰っていたと言うではないか。
詳しく聞くに、其方の所に橋本を送り込んだ小石元俊殿、羽間重富殿と懇意にしておると言う、驚いたよ。
そればかりではないぞ。羽間殿が高橋殿より八つ年上に成るのだそうだが、羽間殿と高橋殿は共に天文学、暦学を学ぶ間柄なのだそうだ。麻田殿の所で一緒に学ぶ同僚だと申しておった。
羽間殿は流行り病にかかったゆえ、吾が一足先に四月も末に江戸に来たと言う。
少し遅れはするが羽間殿も江戸に来るそうじゃ。
御上の御用で江戸表にまで態々来たというに、入門の申し出を断ることも出来まい。大阪に妻子六人を置いて来たというに驚きもしたがの。
吾の所に通いなされと、即刻に承諾したよ」
潮風が今度は背に当たる。先生のお元気な姿に安堵もしたが腑に落ちない。歩きながらに、何故、良沢先生なのだろうと大阪の事情を想像した。
先生のお話からすれば、高橋殿とて吾の事を良くに知って居よう、聞いても居ろう。蘭学階梯を目にもして呉れているやもしれぬ。
傍に橋本も居れば羽間殿も居るのだ。それでいて蘭学を学ぶに、翻訳を学ぶに何故に良沢先生なのだ。
橋本の顔を思っては少しばかり腹も立ってきた。吾に相談があっても良いものを。
橋本は筆不精だったか。