オギャー、オギャーの声が耳に心地良い。
やった。出来た、生まれたぞ。良い声の張だ。
そうなると今度は母体が気になる。
言いも悪いも無い、産屋に充てた部屋を覗いた。
木盥で産湯を使っているお通さんだ。
汚れ物を片付けている産婆さんだった。
「二度目とお聞きしていました。
(お産は)軽い方になります。母子とも健康ですよ。
赤子に流行り風邪など引かさないように。
奥方様の(体力の)回復を一番にお考え下さい」
手元にある先人の書は産後の食事の定番はおかゆに鰹節と教える。だが西洋の書は、産後の体力の回復のために十分に水分を取れ、カルシオ(阿蘭陀語Kalcio、英語Calcⅰuⅿ)を取れ、栄養のあるものを食べよ、酒は控えよ等と教える。
切り干し大根や煮豆、焼魚に鰹節、きな粉などが頭に浮かんだ。試してみよう。莎葉はもともと酒を飲まない。
赤子の名を蓑とした。
(なお、タンパク質もまた重要な栄養素と言われるが、タンパク質という言葉が日本に伝わったは天保八年(一八三八年)以後のこととされている。
阿蘭陀語でeiwit、英語でproteinである)
「可愛い。この手を見て下さい、触ってみて下さい。
本当に柔らかい。モミジのような手。可愛いでしょ?」
いつまでも傍に置きたいのだ。お富に言われて、陽之助は蓑の手に触れて笑顔を吾に寄越す。莎葉は覚悟を決めたか。黙って吾に頷く。
「ご心配に及びません。必ずにまた奥様の手にお返しします。
暫くの事ですもの、ここは我慢、我慢、ご辛抱下さい」
莎葉の頬に一筋の涙が流れた。
「其方が元気になるまでじゃ。
会いたければお通さんがいつでも連れて来てくれる。抱いて来てくれる。少しばかりの辛抱ぞ」
莎葉の産後の肥立ちが悪い。しかも、乳(母乳)の出が悪い。産婆さんとお通さんの紹介で二、三カ月、人の手にお世話になることを決めた。二、三カ月が半年になろうとも、母子ともに元気になってくれれば良い。
戸口に立つと、それまで何も言わずにいたお京が泣き出した。蓑に必要であろうと、身の回りの物を包んだ風呂敷を手にしたままだ。
「一緒について行って良い。確かめて来い」
首を横に振る。そして一言、口にした。
「俺が付いで行ったら、帰ってきて奥様にご報告すねゃがなかんべ(しなければならないでしょう)
(奥様が)見送れないのに、また可哀そうになんべ(なるでしょう)」
陽之助が、蓑は何処に行くのですかと聞く。言葉に詰まった。二、三カ月の辛抱じゃ、答えにならない言葉を口にした。
それから一ケ月、莎葉が死ぬなど誰が予想し得た。
翻訳専一と思っていても吾は医者ぞ。己自身に腹も立つ。何故に養生させてやれなかったのか、何が足りなかったのか。
外科、内科、婦人科よりも殊更に産科を学ぶ必要もあるか。産科は母親と赤子の二つの命を預かる。一遍に二つの命に関わる外治(外科)は他に無いことではないか。
己は今、何をしているのだ、歯ぎしりしながらに己の身を責めたくもなる。
莎葉の遺体を目の前にした陽之助は泣きながらに、蓑は?と口にした。
妻・莎葉、寛政七年(一七九五年)五月死去、享年二十九歳と記す(官途要録)。
五 和蘭医事問答の「付言」
士業が、和蘭医事問答にかかる「付言」が出来たと吾のところに来た。
「奥方様が逝かれて、もう、一月近くにもなりましょうか。
今は、何を言っても慰めになりませんけれども、お気を確かにお持ち下され。
昨夜の雨に大雷、酷い物でしたな。来る道々にもあっちに落ちたこっちに落ちたと耳にしました。
六月も半ですけれどもこの梅雨、早くに上がって欲しいものです。
今日は(和蘭)医事問答にかかる吾の付言が出来ましたれば、お目を通して頂きたくて持参しました。これで御座います。
『翻訳事業を大槻殿(大槻玄沢、子煥)や吾(伯元、士業)に委ねてもなおかつ先生(杉田玄白)は多忙である。
先生の所に診察を頼み来る者多く(近時先生之業、世二隆行)また先生の所に学びたい(従游之徒)、一門に入りたい(社盟二与ル者)と訪ね来る者が後を絶たない。よってここに二師の往復書簡を示すことによって蘭学創始の由来を語るとともに、学に当たっての家塾の心構えを教諭するものである。
奥付
陸奥一関侍医清庵建部先生
若狭小浜侍医鷧斎杉田先生 の問答
男 若狭小浜医官 杉田 勤 士業 校正
門人 陸奥一関医官 衣関敬鱗 伯龍
伊豫松山医官 安藤其馨 子蘭 輯録
陸奥仙台医官 大槻茂質 子煥 』 」
とある。文句を言うことも無い。むしろ士業も、発刊に当たって書くべきこと、記すべきことの理を大分に上達したなと思う。
「これで十分、良かろう」