第十六章 寛政七年
一 谷風の死の報
「大きいのう。丈夫な子が出来るぞ」
目の前の莎葉のお腹を摩った。
「はい。嬉しく存じます」
やっとに茂槇に弟か、妹か出来る。
「今年は良き年であれと、毎年そう思い神棚にも仏壇にも手を合わせるが、平穏な年とてなかなかにない。
こうして新年を迎えられるを良しとせずばなるまい。
流行り風邪が盛ん故、油断するな」
「はい」
「冷えるとお腹の子にも良くもない。
さて、皆も膳の支度が出来たとて待っていよう。参ろう」
小さな中庭と雖も松は色濃い松葉を繫らし、その傍にある南天の木は赤い実が鮮やかだ。
吾は三十八(歳)、陽之助は十、莎葉は二十九になるか。年が改まると家族それぞれの年齢を数えるは何時もの(例年の)ことだ。
また、この日ばかりは吾も家族とても、また使用人とても蝶足膳を使うことにした。
暮に、家財道具屋が背にして来た風呂敷包みを台所に広げた時にはお京もお富も目を丸くした。黒と赤の色も鮮やかな膳に、竹峰、蘭の蒔絵が施された蓋付き漆器のお椀だ。お椀の内側までも鮮やかな朱色だ。
何処ぞの婚礼で見たことはあってもこれで食事をしたことが無い、とお通さんが言った。末吉がぼそっと、大槻様のお屋敷で何度か似た物を見たと言った。
そうなのだ。田舎におって父上や母上に連れられて本家を訪問した時、正月にも誰ぞ身内の婚礼の祝いの席にも使われていた食器だ。
吾もやっとに揃え置くことの出来る身になったかと、それらを目の前にして安堵にも自慢にも思えるのだ。盃とて、色鮮やかな朱と黒の漆器だ。
新年早々、耕書堂(版元、蔦屋重三郎)のお陰で六物新誌の再版(附録に一角参考)もなったゆえに幸先の良い年にも思う。
使用人共々祝いの膳を囲み、そして、神棚に向かって今年も良き年でありますようにと願ったは例年のことだ。
瓦版屋が辻角で張り上げる声が聞こえてきた。耳を澄ませば谷風が何とか。何処ぞで大相撲が始まったと聞かぬ。春場所にはまだ早い。櫓太鼓も耳にしておらぬ。
何がどうした。瓦版を買いに行くのは吾自らだ。(家の)使用人に任せられぬ。今や手にするまでのドキドキ感が堪らないのだ。
正月九日(陽暦二月二十四日)、谷風死す。えっ。瓦版の一番はこれだ。
驚いた。享年四十四(歳)とある。そして、仙台に葬るともある。仙台に帰っていると聞かぬが・・・。
あの大きな重い体をどのようにして仙台まで送り届けたのだろう。遺体を傷つけないで遠くに運ぶ方法とて西洋の医学書にあったか?。
後を追う子供たちをぞろぞろ従えて江戸の町を行く大きな谷風の姿に驚いた時もあった。また、母上や吉も陽(陽之助)も弟も連れて深川八幡に横綱土俵入りを見に行った時の、四股を踏み右の手を前に伸ばした谷風の雄姿も思い出される。
上覧相撲が開かれたのは四年前になるか(寛政三年六月、第十一代将軍・徳川家斉の御前、江戸も本所、回向院で開催)。
勝川春英(浮世絵師)の手による谷風の肖像絵が頭に浮かぶ。
今や大相撲は江戸っ子誰にしても切っても切れない大きな娯楽だ。谷風の死は衝撃と言う他にない。家の戸口を前にして瓦版を手に溜息ばかりだ。
(大槻玄沢著「谷風略伝」が残されている。参考図ー早稲田大学図書館所蔵)
[付記]:NHKの大河ドラマ「べらぼう」を見ていて、平賀源内や蔦屋重三郎の今後がどのように描かれるのだろうと、小生、ワクワク感とドキドキ感を持って毎回見ております。
平賀源内の一番の友人であったろう杉田玄白が何時の日に登場して来るのか、また、源内の殺傷事件、小伝馬町の牢での獄死、それを嘆く杉田玄白の弔辞の絶句が紹介されるのか、大槻玄沢が登場するのか、大槻玄沢の「蘭学階梯」や「六物新誌」の出版等に関わった蔦屋重三郎が語られるのか、触れられるのか、エレキテル使用の場面が放映されるのか、小生のこの小説の第二章(2023年12月投稿)から、第三章(2024年2月投稿)の中でも書いた平賀源内がどの様に放映されるのか、されないのか興味が尽きないところです
