光太夫殿は、硬貨を持参していた。

「皆さんに見てもらいたい」

ポケットから小さな包みを吾に寄越した。

 これが、日本で言うところのオロシヤの小判の一種だと言う。その硬貨の一面にはエカテリーナ女王の顔が刻まれていた。

吾から一人一人が順番に手にして、途中から、男ではないのか、将軍が一番ではないのかとの質問さえも出た。

 椅子に座り長い煙管(きせる)を手にした光太夫殿だったが、筆を執りオロシヤ文字を教えて貰う良沢(蘭花)先生の姿が目についた。

また、足を切断したと聞くが、その外科手術のことを詳しく問う者も出てきた。

 質疑に予定した半時(約一時間)はあっという間に過ぎた。

 妻とお富に案内してもらって、光太夫殿には別室で食事をしていただいた。その食事には吾と士業殿がお付き合いさせていただいたが、よくよくに関心を抱いたのだろう、用もなく、ちょくちょく才助(山村才助)が顔を出した。オロシヤの地理、風土をもっと聞きもしたかったのだろう。

 玄関側の小部屋に待機していた駕籠かき人足は、お茶と饅頭に舌鼓を打っていた。佐野(立見)の声掛けに威勢の良い返事で立ち上がった。

 吾と士業殿と才助に佐野の四人に、妻も、お京やお富さん、お通さんまでもが家の前に並んで光太夫殿のお駕篭を見送った。

「いやー、勿体ない。

 良いお話が聞けたのに。堀内(堀内(りん)(てつ)(ただ)(おき))も宮崎(宮崎元長)も今日のこのことを知ったら、残念、残念と言うでしょうね。

 今頃、米沢で大きなクシャミでもしているかも」

 かつて親しくしていた同僚を思っての佐野の言葉だ。

 三つをつなげた座卓の上は料理が大部に無くなっていた。料理のそれぞれは皆々の胃袋の中だろう。使われたナイフにフオーク、コップ、散蓮華が無造作に散らばっている。

 座卓に乗る七本の硝子壜はどれも(から)だ。二つ三つのコップの中はまだ赤い色をした葡萄酒が残っている。

今度は、鷧斎先生に蘭花先生、法眼様を先に送り出さねばなるまい。

 そう思案しながら市川が書き留めている宴会の席が風景はどうかと彼の背中の後ろに回った。

「大方こんなところでしょうか?

 大分に下絵を描くことが出来ました。続きは日を改めてですね」

 言いながらも市川の右手の筆は休まない。

 三つの座卓を囲む皆々の姿が生き生きと描かれている。床の間の一角獣も違い棚の洋書も描かれてある。椅子には先ほどまで居た大黒屋光太夫殿が座っていた。

「お疲れさん。絵を描いたのは吾だと、左端の方に其方の名を記すが良い」

「はい。それに今日は壁に張りだした芝蘭堂盟引(文)、それをこの左側の真ん中の空白に書き残そうと思っています。

外に是が非にも描き残しておきたいという物がございますでしょうか」

「ここにお集まりの方々の殆どは医者だ。左の柱の横にでも西洋の医者の神様を描けないか?、

さすれば万が一の時、医者仲間の宴、集いとて(キリスト教の)御禁制に触れる場ではないと言うことも出来よう」

 吾の傍に来て絵を覗き込みながらの明卿の言葉だ。吾は頷いた。市川が聞く。

「西洋医学の神様の名は、何と?」

「ヒポクラテスじゃ。

 もっと古い神様はアスクレーピオスだが、その子孫が古代ギリシャの医者、ヒポクラテスになる。彼の書いた医書が今の西洋医学に通じている」

 さすがに勉強家の明卿だ。ヒポクラテスの名と肖像画は吾も知るところだが、アスクレー何とかは知らない。感想を率直に言った。

「この絵図が出来上がって目にしたら、賛を書く、書きたいと申し出る者が多く出てきそうだな」

「賛は絵を飾るもの、絵の価値を余計に高めるものとなろう。

絵も良ければ、吾も一筆書き添えたくもなる」

「名文を期待するよ、明卿」