十五 芝蘭堂蘭学会の宴(オランダ正月)
幸いにも今日は小春日和だ。朝から風もなく青空が広がった。
この日のために、襖を開け放って床の間の部屋と続きの部屋を一緒にした。座卓を三つ、隙間なく繋げておいた。壁には先に先生にもお諮りした吾の文と岡田甫説の筆になる蘭学会盟引を掲げた。
卓子の上にはお箸の代わりにフオークとスプーン(散蓮華)、小皿にグラスを用意した。祝い事に酒はもちろんだが、今日のこの日は日本酒は後回しだ。
自分で入手した物よりも先生はじめ皆様からの頂き物、貯め置いた赤くも白くもあるワイン(阿蘭陀語でwIjn)を用意した。何とか、お一人に一杯は注げるだろう。それからに男山でも浦霞でも(日本酒を)出せば良い。長崎で初めて味わったビール(阿蘭陀語でbI℮r)が無いのが残念だ。
(日本にビールを紹介したのは大槻玄沢が最初とされている)
皆様が揃ったら宴会の席絵図を書き残して今日の記念にしましょうと、市川の提案だ。
(市川邕、字は岳山。一七六〇年生まれ、この時三十四歳。芝蘭堂に学ぶ塾生。伊勢国藤堂候の藩士。一八四七年没。)
絵を得意とする市川なれば、床の間にどんな絵を飾ろうかと聞きもすれば、ここが先生の家と分かるものが良いと言う。
少しばかり考えて、六物新誌に載る一角獣が書かれている掛け軸にした。市川は納得もしたのだろう、頷きもした。
また、床の間の横の押し入れの上になる半棚(違棚)には学者が家と分かるようにと、二、三の書籍と壺に筆、羽筆、物差しなどを入れて飾っても見た。
その前には光太夫殿が座る椅子を置いた。オロシヤでは椅子生活が当たり前だったとお聞きしている。磯吉殿が今に故郷、伊勢国の若松村に帰省しておるとて椅子は光太夫殿の分だけで足りる。
先生お二人(杉田玄白、前野良沢)の席はやはり床の間の前だ。上座にもなれば、並んでお座り頂いた方が良い。
皆様の集まりは順調だ。ただ、確かに考えが足りなかったか、履物の始末だ。整理整頓しておくようお京にもお富にも頼んでおいたが、無造作に土間に脱ぎ捨てられた皆様の草履、下駄の多さに二人は溜息だ。
確かに凡そ三十人が履物を一片に置くところなど、吾とても(藩の)上屋敷やお寺以外に見たことがない。お富には、他人の物と間違いの無いように先生(杉田玄白)、蘭花先生(前野良沢)、法眼様(桂川甫周)、それに光太夫殿だけの履物の置き所を特別に確保しろと指示した。
光太夫殿の参加の手ハズを進めてくれた法眼様には感謝している。また、吾の誘いの声かけにそっぽを向いて聞いていた勝三郎(司馬江漢)さんだったけど、今日は既に着座している。何時に何があったか知らぬが、甫周に参加しろと言われたと、昔のままに法眼様を呼び捨てだ。法眼様の気配りを分かっていない。
この会の責任は全て吾にある。参加者は吾を含めて二十九人だ。先生(杉田玄白)も蘭花先生も既に御着席頂いても居れば、後は光太夫殿の到着だけだ。
そろそろに、光太夫殿のお駕篭が姿を見せても良い頃だが・・・。