「いや、玄沢が本(蘭学階梯)はまだ良い。
それでその後に江戸市中に其方の名も知れたし、本そのものが売れたからの。再版が叶ったからの。
されど吾のは用を足すは医者に限られる。その医者仲間に知れ渡ってもそうそうに銭金には結びつかぬ。
苦労して発刊がために大金を払っても居るのに、それが良く分かった。まだまだ(西)洋の医学を疑って見る者とて多い・・・」
「吾らの翻訳した(書)は人気のある黄表紙や役者絵、浮世絵、江戸名所図等とは違うでの。
されど、何年と後々に歴史に残るは吾らが翻訳して成した書籍ぞ。
其方の(西説)内科撰要じゃて」
「さすが玄沢。嬉しい励ましの言葉よ。
三巻まで発刊したが、まだまだ吾の翻訳したは残っておる。金子の都合がついたところで続きを発刊する考えじゃが、玄沢が言う通りになるよう祈るだけじゃ」
(宇田川玄随の西説内科撰要は各病例、定義、原因、識別、結果、療法等を記している。その全十八巻が出版されたのは彼が亡くなった(寛政九年〈一七九七年〉閏十二月没)後の凡そ十二年後、文化七年(一八一〇年)のことである。
玄随亡き後、養子となった宇田川玄真(安崗玄真)の手による出版である)
「呼び出して悪かったの」
「何の、何の。要件は?」
「恋しい其方の顔を見たかっただけじゃ。
ハハハ・・・冗談、冗談。要件は三つあっての。まずは安岡が事よ。
京から来たばかりの彼を世話して、其方が彼を漢学から蘭学の世界に引き入れたでの。まずは其方に知らせ置くことと、彼にかかる注意すべきことがあれば聞き置きたいと思っての」
「安岡が、何とした?」
「悪い。前置きが長かったの。
実は先生が安岡との養子縁組を考えておる。
先生の次女に八曽殿が居ろう、安岡を婿にと考え、意見を求められた。
吾に聞きはしたが、先生の決心は固かろうから反対は無かろう。
ただ、安岡が先生の所の寄宿生になったは三、四カ月前。もう少し様子を見ては如何かとだけ申してきた。
吾の所に通い翻訳を学ぶにも、先生の所で医学医術を学ぶにも彼が真摯な心構えで机に向かっているのは吾も其方も知るところじゃ。
外に、其方の所で気づいたことでもあるかの?」
「それは驚きじゃ。
だけど安岡が嶺先生の所にあった時も、法眼殿にお世話いただいておった時にも、真面目、真摯な態度、机に向かうに夜を徹すること屡々と聞いておった。
悪いことは目にも耳にもしておらぬ。目出度い話ではないか」
「うん。分かった。それで良かろう。この年の暮れにも縁談話が決まろう。
安岡本人には先生もまだ話しておらぬそうじゃからな。
和蘭医事問答の序文は士業殿に届けたか?」
「今日に、そのことが用事かと思った。
草稿を持ってきた。間違いが無ければこれで出しもする。其方の方は?・・・」
「其方の書いた内容を見てからに書こうと思っておる。
其方は先生から(天真)楼で聞いた問答、吾は一関で先の建部清庵先生にお聞きした問答。だけど元は同じ問答、内容じゃからの。感想交じりの序文に二人とも同じような言葉が続いてはと気にしていたところよ。
それで予め確かめもした方が良いと思っておった」
「うん。そうよの。これぞ」
頷きながらに明卿が懐から紫色の風呂敷を出した。包まれた草稿だ。黙読した。
「分かった。余計な心配だったかもしれん。このままに士業殿にお渡しされよ。
吾は、先生お二人の書簡のそもそもの始まりを記し、往復書簡の内容が阿蘭陀語を学ばんとする皆なの助けになると書こう。
それから、末尾に問答集の校訂、編集等に携わった者の名を記そう」
(宇田川玄随(明卿)の序文は実父・建部清庵と養父・杉田玄白との問答書簡を出版物として残そうと考えた杉田士業(伯元)を讃え(玄随は七歳年下の伯元を友人士業と記載している)、その上で問答集の内容は今に天真楼塾で教えるものにもなっていると記す。
一方、大槻玄沢の序文は東奥にある建部清庵と江戸にある杉田玄白を繋いだは伯龍(衣関甫軒、号は敬鱗)であり、清庵の質問に答える玄白の形で先生二人の往復書簡は阿蘭陀医学を教える初歩となるものであるとしている。
また、清庵が子、(建部)亮策も吾、大槻玄沢茂質も先生(玄白)が門を叩いて何度となくお聞きした。小冊子と雖も、龍が山の雲を払い、雨を凌ぎ天に上るが如くに阿蘭陀語を学ばんとする皆さん(民)の助けになる、と記載している。
また末尾に、この問答集の校正は若狭小浜藩医官 杉田勤、士業。手伝いしは陸奥一関医官 衣関敬鱗、伯龍。輯録は伊予松山医官 安藤其馨、子蘭。手伝いしは陸奥仙台医官 大槻茂質、子煥とある。
なお筆者は、昭和十五年七月に岩手県西磐井郡医師会が「建部清庵先生頌徳建碑」序幕式の際に関係者に配布したという出版物にある「和蘭医事問答」を参考にした。
同出版物には当然に建部清庵著の民間備荒録が収録されている。また、併せて付録として杉田玄白著、杉田伯元校正の形影夜話も収録されている)