「今日の席は喜ばしきこと、嬉しきこととて玄沢が用意してくれた。

 涙は要らぬ。飲もう、飲もう。食べよう!」

 場の気を配するも法眼様だ。その場の雰囲気を変えるように言った。

「お二人のお陰での、吾の纏め来たオロシヤにかかる書は凡そに十一巻にもなった。

 纏めるにもやっと目途が立った。来月も末までにはお殿様に献上できる。

 改めて、お二人に感謝申し上げる。

 書の全体を今に、「北槎聞(ほくさぶん)(りゃく)」と名付けようと思っておる。東西南北の北に、()の字は木編に差し引きの差じゃ。(いかだ)を意味する。

其方(そなた)らに聞くに、まさに難破した船は分からぬ海を漂う筏のようなものだったと覚えた。

 また漂流したオロシヤでの生活、十年を聞きたれば、聞きし事とて聞略とした。

 光太夫殿、磯吉殿、改めて感謝申し上げる」

 聞いて吾とて驚かずにいられない。自信に満ちたお顔をしている法眼様だ。

(桂川甫周(法眼)は大黒屋光太夫等から聴取した凡そ十年に及ぶオロシヤ漂流の内容を「北槎聞(ほくさぶん)(りゃく)」としてまとめ、時の第十一代将軍、徳川家(とくがわいえ)(なり)に寛政六年(一七九四年)八月に献上した。

 同書は長く幕府の機密資料として扱われ、百四十三年後、昭和十二年(一九三七年)に歴史家・亀井(かめい)高孝(たかよし)(故人)氏が校訂して出版するまでその内容は大槻玄沢も、また、江戸市民も明治時代の人々も知ることが無かった。

 北槎聞略に多くの絵図が登載されているが、それを書いたのは石川大浪と推測したのは筆者の考えである。石川は杉田玄白、桂川甫周、大槻玄沢等の傍にいて、武士であり、かつ将軍の警護等に当たる大番組に属し、絵を得意としていた洋画家でもある。

 筆者は、秘密を保持できる絵師、人物として石川大浪を想定した。彼は、私達が良く目にする杉田玄白晩年の肖像画(国の重要文化財)をも描いている)

          十 司馬江漢と安岡玄真を心配する法眼

「其方が用意した料理も酒も良かったぞ。

二人は喜んでいたではないか。

 酒は何と言ったかの、其方の事じゃ、故郷の物にござろう?」」

「おほめ頂き有難う御座います。

 はい、酒は「(うら)(かすみ)」にございます」

「米どころ、仙台の酒じゃったか」

「正確には、仙台から少しばかり海辺に行った塩釜と言う所の造る酒に御座います」

「江漢(司馬江漢)が何時(いつ)ぞに塩釜神社に行くとか、行ったとか聞きおる」

「良くご存じで。その通りに御座います。

その江漢殿が先頃に「西遊旅譚(さいゆうりょたん)」を発刊して御座います。

ハハハ、吾とはあちこち行先の方向が違いますけど、長崎まで行った旅日記に御座います」

「それは知らなんだ。読んだか?」

「いや、まだ買い求めては御座いませんので全てに目を通して御座いません。

 ただ、須原屋の好意も有って手刷り見本の段階で凡そを目にして御座います。

 旅先で見た富士(山)、山、川、寺、神社、土地の風習などを絵図にして(ぶん)と文の間に挿入して御座いますれば、今に世間にはなかなかに良き評判とお聞きしております。先に吾が見た所とても、面白う御座いました」

「それは良かったの。

 評判になればこそ何処ぞの旗本、藩主等から(お抱えの)声もかかろうというものだ。

だが、彼の場合はその前に人の悪口を言う、嘘を平気で言う癖を改める必要がある」

「ハハハ、吾と同じ考えに御座います。何ぞありましたか」

「うむ。昔の事じゃがの。源内先生が生存の頃、彼は先生と行動を共にして地方のあちこちを歩き廻っておった。

江戸に戻ってきては、鉱物(石綿、アスベスト)の発見は吾が手柄と先生を差しおいて言い、先生のエレキテルが江戸市中に評判となれば、まことしやかに吾が源内に教えたと言い触らしていた。

 また近くには、これだけの絵を描けるのだから吾をお抱えにしてくれと越中候宛てに状をもって直訴したと聞いてもおる」

「はい、吾も先生(玄白)が所にお邪魔した時に、そのようなことをお聞きして御座います」

「自薦は頼まれた方とて難しい。他人(ひと)の評価の入らぬ全くの知らぬ人なればの。

そのまま信じて良いものかどうかと疑念が湧く。

 そう言えば、弟、中良(ちゅうりょう)(森島中良)が越中候のところ(白河藩)の御納戸格になった。また、石井庄助殿を手伝って今に本草の書の翻訳を始めたと聞く。

(後に成稿なったのは「遠西本草攪(とおせいほんぞうかく)(よう)」)   

 江漢が事は、其方もあれほど仲が良かったに今は如何(どう)しておる?」