五 司馬江漢の西遊記
皐月(五月)の青空を見上げた。吾の頬も身体も当たる陽に喜んでいる。
そろそろに長崎屋(カピタン等の宿泊所)に出かける日時になる、そのための準備とて必要かと思いながらに手にした今日の瓦版に驚きもした。
何と、大田南畝が昌平坂学問所の第二回人材登用試験を受け、見事、御目見え以下と雖も首席で合格した、四十六歳とある。
銀十枚の俸禄は兎も角、吾が田舎から出てくる前から世に名声を博してきたお方だ。
狂歌の流行に乗って、吾もまた嘘風(ウソッパチ)、嘘風旅人(ウソッパチタビト)、花篠種茂(ハナシノタネナリ)などと駄洒落の名を物にしているのだ。
大田殿は御徒組に属して居ながらも、狂歌の大家として凡そ二十五年余の間、江戸市民の敬愛を一身に受けてきた御仁だ。
その身に何があったか知らぬが、変わり見の速さに驚かざるを得ない。それこそ、彼の作になる「白河の清きに魚もすみかねて もとの濁りの田沼恋しき」なんてものじゃない。
大田殿十九(歳)の時の「寝ぼけ先生文集」(狂歌と詩)に序文を認めもした(平賀)源内先生とて草葉の陰で吃驚もして御座ろう。
午後に「六物新誌」の再版を出してくれるという耕書堂(版元、蔦屋重三郎の店)に顔を出したら、もっと驚きもした。
御目見え以上(旗本)の首席合格は遠山景晋殿(四十三歳。今日の時代劇、金さんで馴染みの遠山金四郎の父上)と瓦版で知りはしたが、何と、その遠山様が、学問吟味をいかにして通り抜けるか、如何にして登用試験に合格するか、そのための書を今に書いている、発刊を検討していると言うのだから仰天だ。
確かに、お侍様とて今の世に燻っていることしかできなかった面々が多く居るだろう。戦で手柄の立てられない世に学問で登用試験と言う大きな出世の道が開かれたのだから、そのような出版物もまた有りうるかと妙に感心した。
久しぶりに須原屋(江戸日本橋南)にも寄った。吾を見つけて寄ってきた主人だ。
「ご機嫌いかがでございましたか。お久しぶりに御座います」
「変わりない。翻訳の仕事もお陰様で途切れが無い。仕事が有るを有難くも思う。
それに、今にオロシヤの語も勉強しておる」
「そうでございましょうな。その様にもお噂をお聞きして御座います。
オロシヤから帰国した大黒屋光太夫と磯吉とか言う者のことで、一時、世間が煩いほどに騒がしかったですからな。
お殿様に謁見するなど、吾ら江戸市民、一生かけて一度あるか無いかですからの。
縁者で無くとも、遭難者を弔うとて今も回向院(本所回向院、現、東京都墨田区両国)の方にお焼香をする方が続いているとか。そのようにお聞きしております」
吾の関心が行ったのはその後の事だった。
「皆様のお陰様で、吾が商売も何かと上手く言っております。
まもなくに司馬殿(司馬江漢)の西遊記(西遊旅譚)が江戸と大坂(文栄堂・大坂心斎橋通北久宝寺町)からほぼ同時に発刊される予定に御座います、
その下刷りが今に届いてございますが、見ても見ますか?・・」
「えっ。見る、見る、見させてほしい」
「まだ司馬様ご本人も見てござらねば、内緒に願います」
勿論のことだ。富士(山)を初めて裾野から見た、それで興奮した。長崎で阿蘭陀船を見た、それに乗せてもらった。長崎も平戸島の先にある生月島で漁師たちの捕鯨の場を見た、凄い光景だったと吾の長崎遊学の時に体験できなかったことを、かつて語ってもいた司馬殿だ。
感心して見ていると、横からだ。
「これなら、きっと江戸の評判になります」
語る主人の顔を思わず見た。
「はい、絵図はきっと大きな話題になります」
字面ばかりの吾の瓊浦紀行よりもはるかに江戸市民の目を引き付けるだろう。見事な絵だ。
文に添えた富士(山)と海原の絵、勢州日永村(現、三重県四日市市)のツンツク踊りとある村人が輪になって躍る祭り絵、石塔寺と周りの山々の風景絵図。大坂は山々を背にした天満橋に、住吉の森の中の鳥居等の絵図。
それに犬戻峡の奇岩の突き出た山と川の絵。
下刷りを手にしながら、絵図を自ら書ける才能が羨ましく思う。
「この石、塔、寺は何と読む、何処になる、犬房峡は?」
「はい、石塔寺は近江国(現、滋賀県東近江)。
犬戻峡は周防国(現、山口県岩国市) になります」
末尾に記された、寅、五月、を見ながら須原屋の言うとおりに売れるだろうと思う。
それによって少しは僻みっぽい性格が治らぬものか。虚言癖が治らぬものかとも思う。司馬殿の顔が思い出される。先輩の鍵っ鼻のお顔だ。
店を出ると、吾の作にあらずとも何となく嬉しくなるは不思議だ。