思いもしなかった方に話が向きもしたが、吾は地理に興味を抱いている山村(才助)を思った。また、大阪にあって、異常なまでに電気なるものに関心を寄せていた橋本(宗吉)のことを思った。

「処で、来月(五月)には出島からカピタン一行が来る。

 四年に一度の参府と決められてから始めての江戸上りじゃ。

  取り締まりが厳しく、長崎屋(江戸日本橋本石町)を訪問するにも事前の手続きとて必要になった。法眼の身にある吾とても

 容赦はない。それ故、是非に会いたい、合わせて欲しいと吾等から事前に御上にお伺いの書を出さねばならぬ。

  昔と違って(あらかじ)め許された者しかカピタンに会うことも話をすることも出来ぬことになった。

  吾が伺い書を(したため)めるが、面会を望むは吾に其方、杉田玄白殿に前野良沢殿、付け足して吾が弟、森島中良。松平越中守殿家

 来となれば文句は出まいと思案したが、それで良いか?、誰ぞ同行させたい者はあるかの?」

「ご配慮、いつも有難う御座います。

 四年に一度のことなれば、今年がそれとすっかり忘れていました。

  お言葉に甘えてもう一人。是非に加えていただきたき者に法眼様良くご存じの明卿(宇田川玄随)がございます。

 先に翻訳して(西説(せいせつ)内科撰(ないかせん)(よう)を纏めてもございますれば、彼とてもその資格は十分に御座います。また、今後の翻訳に大いに  

 生かすことの出来る人材に御座います」

「おお、そうか、そうじゃったの。

 凡そこの十年、明卿は西洋の内科の処置について翻訳しておるからの。

 先頃に、その出来た全巻を頂きもした。

 そもそも(彼は)吾の言葉を信じ、吾をきっかけとしてその翻訳に取り組んできたもの。

 そうじゃった。その資格、十分にある」

(宇田川玄随は、桂川甫周から貰ったオランダ人、ヨハネス・デ・ゴルテルの著作物「簡明内科書」の翻訳に故人、嶺泰春と共に永く取り組んだ。完成した物が「西説(せいせつ)内科撰(ないかせん)(よう)」であり、現代にても内科の基礎医学書と言われている。

 寛政六年四月二十四日付けで。桂川甫周((くに)(あきら)、法眼)が幕府の参政へ、加比丹(カピタン)面会許可の伺い書を提出している。その書の連名にある名は次のとおりである。なお、森島甫斎とは森島中良である。

                    松平陸奥守家来  大槻玄沢

                    松平越中守家来  森島甫斎

                    松平越後守家来  宇田川玄随

                    酒井修理太夫家来 杉田玄白

                    奥平九八郎家来  前野良沢

 右ハ私蛮(わたくしばん)書同学之(しょどうがくの)者二御座候(ものにござそうろう)・・・・(わたくし)対談(たいだんの)(みぎり)右之(みぎの)者共一(ものどもいち)両人宛(りょうにんあて)同道仕度奉存候(どうどうしたくたてまつりぞんじそうろう)依之御内意奉(よってここにおないいうかがいたてまつり)伺候(そうろう)

      寅 四月二十四日               桂川甫周

 大槻玄沢は寛政六年から文化十一年に至るまでの二十年間、都合六回、カピタン参府のつど長崎屋を訪問し、その内容を「西賓(せいひん)対晤(たいご)」なる表題の下に記録している。

 なお、寛政六年春のカピタン参府は、カピタン、ジイスベルト・ヘンミイー(GYSBERT HEMMY)、随行した医者(ドイツ人)はベルナルド・ケルレ(A・L BERNHARDT KELLER,通詞は大通詞、加福安次郎、小通詞、今村金兵衛と記録されている)