御線香は吾の懐にある。
たまたまに朝早くから顔を出した稲村だ。吾等の出かけるを知っての申し出だった。江戸市中を碌に歩いたことも無い、支障りなければお供をさせて下さいと随行を申し出た。
墓の周りは雑草とてもまだ丈が短い。持参した鎌での草取りとても容易だ。
稲村が汲んできてくれた水も墓前に供えた。
「早いものですね。去年の夏にはお母様、そして今日にはお祖母様の三回忌ですものね」
陽之助に語り掛けるお京だ。
吾とて時の経つのは早いとの思いだ。
それからに、吉のお墓に回った。
「何故にこのように?」
稲村の質問はもっともなことだろう。吾とても一家の墓は一か所に纏まってあるべきと思う。だが、この東禅寺の墓地の大半は複数の何処ぞの御大名が菩提寺とあって空地が無かった。
説明しながらに、母上にお焼香をと、陽(陽之助)に声を掛けた。
眠る骨の無いもう一つの墓(弟,陽助の墓)にも巡り回って、お焼香もした。
四 カピタン面会の許可伺い
通いだしてからも、数えて通算十日ばかりの訪問になる。大方写し終えたと言ってもまだ千の語を終えたばかりに過ぎない。後、五日、六日はこの御薬園に来るようになるか。
これまでは、幸いに伝え来る法眼様の日時に合わせることが出来た。
来た時には、決まって九つ半(午後一時)に竹駕籠に収まった弁当が四つ届けられる。これもまた法眼様のご配慮だ。
芝居見物の幕の間に食べる幕の内弁当とか言う物だ。その日によって、焼き魚やエビの天麩羅が付くときもあるが、卵焼き、蒲鉾、煮しめた蒟蒻、里芋、干瓢、焼き豆腐に白飯が定番だ。
この昼飯の四人のお茶の時が楽しみにもなった。時折に、付け足しだと言って磯吉殿が作ってくれる暖かいみそ汁や鍋物も良い。
仕事の終わりは宵五つ(午後八時)と割り切れた。
その時刻を見計らって法眼様の所の小者が迎えに来る。その時が吾の一日の筆写の終わりをも告げる。
筆写作業の傍ら光太夫殿、磯吉殿から聞くオロシヤでの生活に関心も引かれながらも、法眼様が語る二人に対する幕府の対応により関心が行く。
帰りの道々にお聞きした。
「お二人には本当に頭が下がります。
今日にも良くしてくれて、吾らに一日付き合うのですから大変でしょう。
お裁きはどの様になりましょうか。軽かればと思いも致しますが・・・」
「松前でラスクマン(アダム・ラスクマン)達と会談した石川将監殿と村上大学殿が三月も末に江戸に戻ってきた。
お二人が、御老中に会談内容等の報告を改めてしたとお聞きしたが、その内容が如何にあったか吾の知る所ではない。
されど、お二人が帰ったとあれば、光太夫、磯吉にかかるお裁きも間も無くにあると言うことになる。
これまでに聞き及んでいるところからすればお二人が罪人になることはない。それは幕府もまた、世の中、世界に目が行きだしたと言うことじゃ。
世界が広いことも、世界に学ぶべきことも多くにあると幕府がよくぞ知りだしたことになる。
何故に学ばぬと語った其方の蘭学階梯しかりじゃ。徐々に其方の所に入門を申し出る者が増えておろう。しかもそれは医学を志す者に限らなかろう。
このまま国を閉じていることは難しきことぞ。逆に世界が日本を放っておかぬ」
(石川将監は石川忠房と改名。後に作事奉行、勘定奉行、江戸城本丸御留守居役となる。また、村上大学は村上義礼と改名し、後に南町奉行となる)