第十五章 寛政六年
一 大黒屋光太夫に習う
ア 法眼、桂川甫周の誘い
吾も莎葉も涙の乾かぬままに正月(寛政六年、一七九四年)を迎えた。
年が改まれば、僅か一夜の事なのに気持ちとて清々しくも感じる。文机を前に今年の計画はと思うところを書き並べてはみるものの、三日坊主になるのは例年の事だ。
気も新たにして上屋敷に向かう。商家や家々に新年を祝う大小の門松や注連飾りが見られる。道々とはいえ、この年も平穏であれあれと思うは吾に限らないだろう。
御屋形様の祝賀のお言葉が有るとて大広間に参集するも例年の事だ。だが、大広間はいつになく騒々しい。あちこちに人の塊が出来ている。医者だまりに顔を出した時には皆々がお互いに、明けましておめでとうございますの合唱だったに、何が有った?。
聞けば、江戸に向かっていた廻米船が遭難した、去年の暮れから行方が分からなくなっていると聞く。積み荷が藩の廻米凡そ千四百俵と聞けば唖然とする。他に材木を積んでいたとか。
大広間から戻っても、医者溜まりはもっぱら遭難した若宮丸とか聞く船の話だ。吾とて、御屋形様の祝賀のお言葉も、掲げられた今年の藩そ目標も半分と覚えていない。
新年早々大変なことになったなと思いもするが吾に出来ることとて無い。
往診の頼みがあれば患家に出かけはしたものの、例年の三が日の新年の挨拶回りは控えた。
構わぬから何処ぞの神社、お寺にお参りに行くがよいと少しばかりのお年玉を握らせたが、お富等使用人さえも何処にも出かけなかった。
七草も過ぎ、今朝に莎葉がやっとに床を離れた。
「大丈夫か。無理せず、伏しておった方が良いと思えば遠慮することはない。
家のことはお富やお通さんに任せて養生を続けるが良い」
「はい。有難うございます。何やら今朝から元気が出ております。
陽様からも母上大丈夫ですかとの言葉、元気が出る基でございます」
「其方が元気にしておれば、吾が家も明るくなる。
陽も待ち望んでおる」
「はい」
笑みを見せる莎葉に一安心だ。
遅くはなったけど、これならば先生の所にも、芝口(前野良沢の所)にも工藤様の所にも顔を出さねばと思案していると、法眼様の使いだと言う小者だ。
「はい。お殿様(法眼、桂川甫周のこと)からの言伝に御座います。
明後日、十日の朝五つ半(午前九時)までに芝の本宅に御出で下さいとの事です。
その後に、御一緒に雉子橋門外の厩舎空屋敷に参るとのことに御座います」
嬉しい事ではないか。莎葉の笑みを見たばかりに良い知らせが舞い込んできた。
して、先生の所にも、士業殿にも伝えたのかとお聞きしようとしたが思い留めた。
法眼様のお考えも御座ろう。余計なことを聞くまい、吾が桂川家に寄れば知れることだ。
「朝早くからにご苦労だったな。
これから行く雉子橋門とは逆の方向になるのに呼び立てて悪かったの
「とんでもございません。お声を掛けていただき真に有難うございます。
今も胸がワクワクしております。喜び勇んで駆けつけたと申せましょう」
「今朝は冷えるゆえ来るにも大変だったろう。
お茶を一杯いただいてからに参ろう。
支度は出来ておろうな?」
「はい。何時にても書き置くことが出来るよう、このように諸道具を持参しております」
吾の風呂敷包みに目をやり、頷く法眼様だ。
一杯のお茶にさして時も要せず、共に席を立った。自分もまた風呂敷包みを抱えている。お持ち致しましょうと声を掛けるも、いや、これは吾が持つと言う。
ここからそう遠くないとお聞きしても、歩くとなれば四半時(凡そ三十分)はかかろう。お駕籠を使える身にあるのに今日も歩くと言う。
「健康を維持するにはこの方が良い。
庶民の生活ぶり、巷のことも良く知れるでの」
微笑みながらに語る法眼様のお言葉に、去年の秋は大豊作だった。米の値も下がり世情は穏やかだなとの思いが行く。
初めて会う大黒屋光太夫殿、磯吉殿を想像して胸が躍る。道々に法眼様が語ることとて嬉しくも楽しくも聞く。
「漂民御覧之記を献上する時、吾から直接お殿様に大黒屋光太夫と磯吉、お二人を訪ねることのお許しを頂きたい、引き続き聞き
取りをしたいと申し出た。
すると逆に、引き続き訊問せよ、詳細をまとめよと殿の仰せだった」
肩を並べて歩くなぞ、実に何年振りになることか。
「吾等が二人に会うは御上(奉行所)の許しを得ての事。
御上は何時にても二人を訪ねても良いが聞きし事は他言無用。
事が幕府の秘密事項にも当たることと覚悟して臨めと言いおる。それゆえ其方以外、士業も誘わなんだ。
先生(杉田玄白)には新年のご挨拶にと訪問した折に、そのことをお話して御理解を頂いておる」
驚いた。士業殿が事についてではない。かつて解体新書の翻訳を共にした仲とはいえ、幕府の法眼様が一藩の藩医(杉田玄白)の所に新年の挨拶をしに出向いたことになる。
冗談交じりを良く口にする法眼様だけど、時が経っても子弟の関係にも有った礼儀を重んじる姿勢に改めて感心した。