十 妻、莎葉の死産
安岡が事、お礼を言うことが出来なかった。次にお会いしたら必ず法眼様にお礼を述べねば・・・。そう思いながらに玄関を跨ぐと、お富だ。
「大変に御座います。急に産気づいてございます」
お富が、お京に言いつけて今にお湯を沸かしていると言う。慌てて妻の寝床に急いだ。産屋に充てよと予め伝えおいた部屋だ。
青白い顔をしていた。天井から吊るした紐を両手に、口にした布を噛み切らんが形相だ。
「何時頃に陣痛が始まったと?」
「先ほどに・・・、産婆様をお呼びしましょうか」
「馬鹿を言うな!。それよりも、産湯をしかと用意せよ」
初産とて時間を要しもしよう。そう、思いもした。
「莎葉、我慢ぞ。痛かろうが我慢ぞ」
声も無く頷く。妊娠の月日を数えた。足りていよう。後は元気な産声を待つだけだ。
不意だった。莎葉の左手が吾の右手に触れた。思わず握り絞めた。莎葉の左手は考えもつかないほどの力だ。痛いほどに感じる握り方だ。か細い身体のどこからこのような力が出るのかと驚きもする。
茂槇の生まれるときに立ち会っていなかった。初めて出産の場に立ち会う、初めて経験することだと、自分で自分に気づいた。
「莎葉、もう少しの辛抱ぞ。頑張れ」
何故か田舎に在る時に、何かといえば最後の別れの言葉に、友からも、叔父や叔母からも、父母からも言葉の終わりに「がんばれ」の言葉が付いたのを思い出した。
なかなかに赤子が出てこない。
一刻(凡そ二時間)も過ぎたろう、鮮血と破水の混じる中だった、やっとに赤子の顔を目にした。
へその緒を切った。赤子はまだ目を開けぬが心配はない。だが、声が無い。薄黒い赤子の顔を軽く叩いてみた。小さな手足に力を感じられない。慌てて心の臓のあたりに手を置いてみた。鼓動がない。思わず、おい、と声が出た。おい。おい。
頬を伝う涙が顎に来て吾に返った。莎葉にどう説明すればよいのか。お富と顔を見合った。側に使うことのない産湯の盥と、この日の赤子のために予め用意していた真新しい白布だ。
死産と言う言葉は聞きもしていたが、目の前に声も出さない赤子を見ると、知ると、何と残酷なものか。医者であるがゆえに赤子を吾が手で上げる、その喜びを何度想像していたことか・・・。神も仏も無いのか。
[付記]:上記で第十四章は終わりです。皆様とお約束している投稿予定日は明日7日金曜日もなのですが、少しばかり体調を崩しても居ますので、明日の投稿はお休みさせていただきます。月曜日、10日から、第十五章を投稿させていただきます。宜しくご理解のほどお願い致します。