つい先日、十一月も下旬だな。磯吉が、警護にあたっていた小人目付に窓の板付けを取り外してくれないか、部屋が暗くて気が滅入る、牢獄暮らしみたいで耐え難いと訴えて、それが意外にも効果を奏したようだ。直ぐに板付けが取り外されたそうじゃ。
二人が逃げ出す心配も無ければ、幕府とてこれからのオロシヤ国との有り様を検討していくに二人の協力が必要になる。
恐れ多くも越中侯にその事をお話した、そういう吾の意見も考慮されたみたいじゃ。
漂流は実に十年にも及ぶ。オロシヤの気候風土から草木に鳥、魚、獣、虫等に、人物、風俗、婚姻、祭礼、葬礼、耶蘇教、官位、俸給、医官、僧侶、商人、時刻、文字、租税、度量衡、家屋、学校、薬局、病院、幼院、唱家に、飲み食い、食べる物、飲むもの、煙草、橇にキビッカ、輿、舟、鉄砲、刀、その他の武器、楽器、陶器、書籍、出版、印刷、紙、墨筆、いやはや、聞きたき事を並べてみただけでも凄い数になりおった。
光太夫はまめな男じゃ。オロシヤ語をはじめ多くの事を記録しておる。これまでに知ることの出来た気候、風土、庶民の暮らしぶり等もあるが、聞くことも、教えてもらうことも、書き控えることもまだまだこれから、これからの楽しみじゃ」
頷いたのは先生ばかりではない。士業殿も吾もだ。
吾等三人に、来ていると知った寄宿生から書生までものお見送りを受けた法眼殿だ。心配は要らない、歩いて帰るよと、法眼様となっても肩を張らない、飾らない甫周さんには見習うことばかりだ。
吾がかつて(蘭語を学ぶために)良沢先生の所に通ったように、法眼様も浜町から芝のご自宅まで歩くとなれば小一時間はかかる。従者の小者にも大分に待たせたなとお声を掛けていた。待たせた張本人は吾々なのに。
先生と士業殿と吾の前でさりげなく、年明けになるだろう、今度に厩舎の長屋を訪ねる時には声をかけるよ、と改めてお声を頂いた。約束を破るような人ではない。雉子橋門外に在ると言う厩舎の長屋も、また、まだ見ぬ大黒屋光太夫殿も磯吉殿をも想像した。
もう師走も半か。歩きながらにここ一、二ケ月ばかりに目にした瓦版のことを思い出してもみた。さすがに江戸市民にもお殿様の引見があったと漂流民のことは既に知れ渡っている。
死んだ小市を含む三人の帰国は去年(寛政四年)の師走(十二月)には彼等の故郷の伊勢国若松村に知れ渡っている。根室に三人が送還されてきたことを急飛脚で知った幕府は、神昌丸の出船の地が紀州藩の領地白子浦になるとて紀州藩の江戸屋敷に彼らの身元を照会していた。
それで知ったのが三人とも若松村の出身で、その村が亀山藩になるとて今度は亀山藩の江戸藩邸の留守居役にも身元を照会していた。当時その騒ぎを瓦版屋も吾も江戸の市民も知らなかっただけだった。
村はとうの昔に村の墓地に遭難者の供養碑を建てていた(遭難のあった二年後)。また有志によってこの江戸の回向院にさえも光太夫以下全員の名を刻んだ追善碑が建立されていたと瓦版だった。
今日の法眼殿のお話からも、余計に光太夫殿と磯吉殿に是非にも会いたくなった。工藤様も、帰国した二人がオロシヤのイルコッカ(イルクーツク)にも、ムスクワ(モスクワ)と言う所にも、新首都ペートボルグ(ペテルブルグ)に行って来た、エカテリーナ女帝にお会いして居たと聞いたらば何と言おうか。
かつて、法眼様と一緒に、工藤様宅にて長崎からだというオロシヤの状(手紙)の写しを見たどころの驚きではない。怪しげな翻訳をして駄賃をもらった引け目が今もあるどころの話ではない。
今度は、オロシヤを見聞して来た二人から現実を聞くことが出来るのだ、翻訳に役立つ凡そ千五百ものオロシヤ語を筆写することが出来るのだ。
お見送りした後にお座敷に戻って先生から、安岡(玄真)が事、法眼殿は了解してくれたよとお聞きした。有難い。これで安岡はほっとするだろう。
安岡は引き続き吾の所に蘭語を習いに通い来るのだ。何か事が生じれば安岡が相談に応じることが出来よう、また、いち早く法眼様に御報告出来よう。
(なお、大槻玄沢は自身の書、畹港漫録の中に桂川甫周に聞いたこととして「漂民記」を記している)