第三回目の会談は二日後の六月二十六日に行われたと聞く。石川等は、通商の折衝は長崎で行うのが日本の国法だと再度説明して、長崎入港を認める信牌をラクスマンに与えたと言う。
その会談で交渉事は終わりだった。その折、江戸に居る日本の最高の高官(将軍)にと、大鏡にピストルとか言う短筒と、寒さ厚さを計り示す寒暖計という物が贈与され、受け取ったと聞いておる。
アダム・ラスクマンは、父、キリロ・ラクスマンから江戸にいる学者に渡して欲しいと二通の書状と寒暖計を持たされていた。その書状等もまた受け取り、石川らが江戸に持ち帰ってきておる。
日本側は幕府の命によってライ麦六十一俵、小麦十七俵、蕎麦三俵、塩漬けの馬肉六樽、麦、その他になんと粉をひく臼とか篩いまでを贈ったのだそうだ。
ラスクマン達は松前から一旦箱館に戻り(七月四日に箱館到着)、それから荷物の積み込み等態勢を整えて七月十六日にエカテリナ号は箱館を出帆したと聞きおる。
光太夫と磯吉は松前で石川殿、村上殿の尋問を受けた。その時にはお白洲だったと言うから罪人扱いと言うことになる。
ラスクマン達が箱館を発ったその日に光太夫と磯吉は松前から津軽海峡を渡っている。同行したのは幕吏、松前藩士、医者と足軽の十一名だったと光太夫は記録していた。
江戸までの道中にも色々とあったらしいが、罪人の乗る竹網の駕篭ではなく、ご大尽が乗る立派な駕篭で驚いたと言っておる。
また、三度の食事も二の膳付きで、自分たちは特別な扱いをされていると気づいたそうだ。
津軽から南部、一関、仙台、福島、大田原、宇都宮、越ケ谷と宿を重ね、千住宿には八月十七日に着いたというから、凡そ一か月を要した江戸上りということになる。
千住宿まで江戸町奉行所の御月番、池田長恵殿配下の与力、同心が迎えに出ていた。運んで来た荷物はその場で全て封印されたそうだ。
駕篭に乗せられたまま江戸入りをした光太夫と磯吉はそのまま奉行所に連れて行かれ、何枚も重ねた蓆に座らせられたと言う。
どうあれ、お取り調べがあったということになる。お奉行様、池田(池田長恵)殿が出座してのお取り調べだった。
その後、二人は雉子橋(現、東京都千代田区、日本橋川に架かる橋。江戸城雉子橋門)の外、厩舎空屋敷の長屋に駕篭で送られた。
十畳もある座敷に別々に入れられて雨戸も窓も板が打ち付けられたという。それで光太夫は大きな不安に駆られたと言ったな。(江戸に)上る道中の時とは大違いだと思ったとも言った。同心が昼夜の別なく警護に当たったのだそうだ。
その一方で、三度の食事は満足するもので、しかも、指示された小者が身の回りを世話してくれるので何が何だか分からなくもなったと言っておった。
その後、下調べ、取り扱いがあってお殿様の引見ということになるの。吾は訊問役、書き控え役の仰せがあって、予め質問を用意してあの場に臨んだ。光太夫の応えは吾が想像していた以上の事だった。
驚くことが多く、あの場でも段々と日を改めて聞かねばならない、かなりの日数を要すると思いもした。
吾は先頃に、引見に及んだ時のことどもを「漂民御覧之記」として纏め、お殿様に献上した。
ウ オロシヤの今に関心を抱く法眼、玄沢
少しばかりホットして新年を迎えられるが、光太夫にも磯吉にも聞くべきこと、教えてもらうべきことが多くて、今も雉子橋(外)の厩舎跡の屋敷長屋に通い続けておる。聞いて書き控えるべきことはまだまだ山ほどにある。
厩舎(空屋敷)の長屋の方に訪ねた最初の日に、引見の場に吾が居た、聞き役、書き控え置き役を務めた一人、桂川甫周だと名乗ったら驚いていた。
光太夫も磯吉も、あの場の役の一人が桂川甫周本人だと知る由もないからの。光太夫は、あの時、何故にこの場が騒めいているのか理解できなかったと言っておった。
その後に、光太夫は言いたいことも応えたいことも十分の一とて無かったと言った。吾が厩舎跡長屋に通うことを受け入れてくれる言葉だった。