「はい。光太夫から聞いておるには、ラスクマンは松前まで行く、幕府の高官に合わせてくれと主張したとか。

 幕府の小役人が、松前藩まで三百里(約一二〇〇キロ)もあると言えば、ラスクマンは海路で行く、会える手はずを頼むと言ったとか。

 その日のうちに松前に急飛脚が建てられ、凡そ二十日も経ってやっとに返事を持った飛脚が根室に到着したとお聞きした。(四月二十四日到着)。それが、幕府が松前に派遣しておった目付、石川将監(いしかわしょうげん)村上(むらかみ)大学(だいがく)からの下知書だった。

 ラスクマン一行を船で絵鞆(えとも)(室蘭市)まで案内せよ、そのために、松前藩の藩船「(よし)(しょう)(まる)」を水先案内として根室へ派遣するとあったとか。

 エカテリナ号と禎祥丸は五月七日に根室を発った。ところが光太夫が言うには、絵鞆(えとも)(室蘭市)に向かう途中の風向きが悪く、南部藩領の下北半島まで二つの船が流された。それで急遽、比較的近かった箱館(函館市)に寄ることになったとか。

箱館(はこだて)湾に入ったのが六月八日だったと言うから、根室を発ってそこまでに凡そ一カ月を要したことになる。

 箱館で豪商・白鳥新三郎の接待を受けたと聞く。ラスクマン等と光太夫、磯吉は、そこから松前まで陸路で行くことになった。

 オロシヤ側は、ラスクマン以下十人に日本人とオロシヤ人との混血児の通訳二人で十二人、一方、日本側は幕史に松前藩の藩士等々で三、四十人超えにもなり、あたかも大名行列を思わせるものだったと光太夫が申しておった」

「今、混血児と言いましたか」

「うん。光太夫が言うには先に遭難した南部藩(なんぶはん)漁民(ぎょみん)()がオロシヤでオロシヤの女子と所帯を持った。その何人かの混血児と知り合いになった。オロシヤには日本語を教える学校もあったそうだ。通詞にも成れるのだとか」

「それもまた、詳しく知りたいもので」

「興味が尽きないだろう」

「これまでにお聞きしていることだけでも、ワクワクしてきます」

「箱館から松前までの沿道にも見物人が多かったと言う。道中、三泊を要したそうだ。

 ラスクマンや光太夫達に与えられた松前の宿所は大商家の屋敷だった。明日に幕府の高官が会談すると伝えたそうだ。

光太夫が言うには六月二十一日にだったかの、第一回の会談が開かれたのだそうだ。八つ半(午後三時)に幕史が迎えに来て、使節ラクスマンと船長、通訳のトゴルコフとか言ったな、歩いて松前藩浜屋敷に赴いたのだと言う。

 光太夫が言うには、日本側は十人を超える幕史が正装姿で出迎え、大広間で石川殿(石川将監)と村上殿(村上大学)がラスクマン等と対面したらしい。

 ラスクマンは書面を差し出し、漂流民を送り届けに来た。この機会にオロシヤと日本との友好協約を締結したいとエカテリーナ女帝の意思を伝えたそうだ。そして、漂流民を江戸の最高級の役人に直接引き渡すよう訓令を受けていると語ったそうだ。

 日本側は、ラスクマンが何を言っているか理解できたものの幕府が国を閉じているから何も言えない。応接役の石川も村上も終始無言だったそうな。

 この日本では、異国に行った者は国法を犯したとて罪人になる。また、光太夫達みたいにたとえ海難事故であっても異国に流れ着いた者もまた罪人。例外ではない。キリシタン(耶蘇教)禁制を敷く幕府は漂流者が送還されてきても受け取らず、追い払うこともある。

 二回目の会談は、三日後の六月二十四日だったそうだ。ラスクマンは書面での回答を求めた。しかし、石川殿と村上殿は、この地で回答を一切行うことは出来ない。日本との通商を望むならばまずは長崎に行け、長崎に入港する許可証を与え用意があると言ったと聞いておる」

「それは、越中侯(松平定信)のお考えで・・・」

「余計な詮索は無用。(黙って)聞くが良い」

 士業殿の(とい)を先生が打ち消した。

「ラスクマンたちが宿舎に戻ると、追ってその日の夕方にいきなり光太夫と磯吉を引き渡して欲しい、と二人を迎えに幕吏が来たのだそうじゃ。ラスクマン達は、そこでも驚いたろう。

 だが、何があったか知らんがラスクマンは光太夫と磯吉を引き渡したのだった。光太夫が言うには、ラスクマンと船長達は一室にこもり喧々諤々何やら協議していた。それから出てきたと思ったらいきなり、其方達二人を日本に引き渡す、荷物を纏めよと告げられたという。

 ラスクマン達は幕府の仕打ちに腹が立ったろう・・・。じゃが、根室についてからも凡そ十か月も経っていた。どうも、食料等の不安を抱えていたらしい。

 光太夫は、お世話になった方々に改めて感謝し、涙ながらにラクスマンや船長等の身体を強く抱きしめたと言った。船員の一人一人と握手をしたそうだ。磯吉も同じだ。

 

[付記]:子供、友人が来た正月の後の日の長いこと、長いこと。妻と二人だけの生活に戻ってそう感じるは小生ばかりではないでしょう。

 今年は2月2日が節分とかで、昨日に妻の手作りの恵方巻を食べました。何時の時から恵方巻を食べる日だの、バレンタインデーだのと言うようになったのだと、ちょっぴり商業主義を批判しながらもその恩恵にあずかりました。

 私も妻も戦争を知らない子供です。テレビはウクライナの破壊された家屋や戦場に戻る18歳の少女を放映していました。何から何まで物価が値上がりして年金生活者に住みにくい世の中だけど、戦争の無い日本こそ後の世に続く子供たちに引き継がねばねと話し合いました。

 脹脛(ふくらはぎ)がツル、腰が痛いと言いながら何処にも働きに行かず。小さな庭やベランダで穫れる冬野菜に喜びを感じながら机に向かっていられるのだから幸せ者だよ、と77歳の小生、つくづく思います。

 この1月も、小生のブログ小説をお読み下さる皆様から460のアクセス(読者)を頂きました。改めて感謝申し上げます。