キビッカという輿みたいなのを橇の上に載せ馬に鞭打つも、時折その輿の中で暖を取るのだそうじゃ。馬は六頭も八頭も一編に繋ぎ走らす。多いときにはなんと十六頭の時もあったと言う。
(参考図ーキビッカ。岩波文庫「北槎聞略」(桂川甫周著、亀井高孝校訂)から転載、加工)
(岩波文庫から転載、北槎聞略海陸道路程図、源貴志氏作成)
光太夫、庄蔵、磯吉、小市、新蔵、九右衛門の六人は、役人、馬方等十二人と一緒に二手に分かれて出発したとか。
遭難した者が十七人。それが六人だけになっていたということじゃ。
凡そ二か月にもなる旅で、真冬の二月七日と言ったかな、イルコッカ(イルクーツク)に到着したそうだ。これまでに滞在したヲホッカ、、ヤコーツカよりはるかに大きな町だと言っておった。
一人、庄蔵は重度の凍傷になってしまったらしい。その足を切断しなければ命は無いと現地の医者の診断だったそうだ。
鋸で切断すると説明が有り、日本では考えられない処置の方法に開いた口が塞がらなかったと言っていた。
イルコッカの診療所で庄蔵の左足は膝の上あたりで切断された。焼酎に浸した木綿で傷口をぐるぐる巻きにしたそうだ」
「うん」
先生が声にして頷いた。
「町には教会が七つ、芝居小屋、塾、学校という物もあったそうだが、それ等のことはお殿様との引見の後に知ったことよ。
このイルコッカでこそ、先にも話したキリロ・ラクスマンに出会った。
キリロは陸軍中佐の身でありながら、鉱物・植物に係る学者だった。他国の言葉、文字にも通じていて大学校の教授でもあり、ロシア皇帝の信頼も厚い人物だった、更には、ガラス工房を持つ経営者でもあったと光太夫の話だ。
その出会いが光太夫等のその後の運命に大きくかかわっていた。キリロの仲介でイルコッカの省長官を通じ帰国の願書を度々に皇帝宛に出したそうだ。
お殿様の前で光太夫は、(イルコッカの)お郡官様からこの国にて士官になったらどうか、出世の道はある。士官の臨みなくば商人になるも良し、租税の免除もし、家を与えると言われたと話した。
それとても、日本ではとてもとても考えられないことだ。だが、光太夫はそれを断り、吾一人、女帝に会いに行ったとお殿様の前で自ら言い出した。
イルコッカで三年目の初夏のことだったらしい。
イルコッカから女帝の居るところ、ぺテルスブルグまでも何と五千八百余里の道とか(五千八百二十三里、ロシアの里数)。
オロシヤは途轍もないほどに大きな国ぞ。地球儀で知るよりも言葉で聞いて驚くばかりじゃ。勿論、キリロ・ラクスマンが同行したそうだ。
出発に向けてどのような準備が必要とされたのか、女帝に会えるまでの間にどのような仔細があったのかまだ聞いておらぬ。光太夫に確かめるはこれからじゃ。
光太夫はお殿様の前で、宮殿の様子、女帝に初めて会った時のことを語った。しかし、そのお会いできた宮殿とて、オロシヤの都、ぺテルスブルグにある宮殿なのか、また、何という宮殿なのかまだ聞いておらん。聞く楽しみがまだまだにあるということじゃ」
「お聞きしているだけで胸が躍ります。
ますます光太夫殿達にお会いしたいものです」
「吾も是非に御一緒したい」
法眼殿は吾を見て、追従した士業殿を見て、それから先生を見て首を縦にした。
了解したと採るべきなのか、もう一言何か言うべきかと咄嗟に思案したが、法眼殿は湯飲みをお盆に返すと直ぐにまた話を続けた。
「ぺテルスブルグに着いてから、キリロを通じてやっとに宮殿から呼び出しが来たのだそうだ。
天にも昇る気持ちで宮殿に向かったと言っておった。
後で聞いたことだが、その日は六月十八日で女帝の即位記念日だったとか。
お殿様の前で、光太夫はキリロの準備してくれたフランス国の製た服を着たと話した。
宮殿には大勢の着飾ったご婦人や正装した男達が居たと言う。女帝の居る広間は二十間(三十六メートル)四方もあった。壁も太い柱も朱と緑の色の混じった大理石で、ただ、ただ目を丸くしたと言ったな。
正面の緩い勾配のある階段の上で、金色にも輝く豪華な椅子に華やかな王冠と衣服で身を飾った気品あるご婦人が腰を下ろしていたと言う。
それが、エカテリーナ女帝だった。光太夫がそれを言った時、お殿様も吾等取り巻きも一斉に聞き耳を立てた。シーンとしていた場が一層静かになった。

