イ 法眼、桂川甫周の語る漂民
「吾は小姓組番頭格の高井清寅殿と共に訊問役、書き控え役を仰せつかった。
吾から質問に入った。最初の質問は漂流する身になって着いた所は何処かだ。
先にも話した通り、アミシヤツカという小島に漂着していた。
そこに住む男は髪を後ろに束ね、髭が濃く、女は手の甲等に刺青をしておって、鼻の穴にまるで角が生えているように魚の骨かなんかの飾り物をしておったそうだ。
着ていたものは男も女も鳥の羽を綴ったもので膝の下まで丈があったという。
着いた季節が夏の頃ゆえか、素足だったと言っておった。
日頃に食べるものは、海から穫る魚に、黒ユリの根をすり潰し水に混ぜて煮る。白酒のようにしたものだったとか。
実にそこに四年も過ごしたと言う。その間に病に罹って死ぬ仲間が次々と出て、辛うじて島を脱出して地続きのカムサツカ(カムチャッカ)に渡った時には遭難した者十七人が九人に減っていたと語った。
誰と誰が死んだのか、また、どの様にして脱出できたのか、今に光太夫、磯吉、二人の所に訪ねて病のもとと、島を抜け出せたその手はず等を聞いておる。
また、お殿様の前で耳にすることのできなかった女帝の住む宮殿までの路程は如何あったのか、どうして女帝にお会いできたのか、それをまた聞いておるところじゃ。吾の大いに関心のあるところぞ。
カムサツカでも三人が病死している。お殿様の前で光太夫が語ったことから判断すれば、和蘭の医書の教えるシケウルボイクというものらしい。栄養不足と、日射不足から得る病で、太股より下が青黒く腫れ患部が腐っていく病と推測しておる」
先生は頷く。吾は田舎の冬を思った。病名も分からずに見る病の一つではなかったか。田舎の冬なれば野菜不足と陽の出ぬ日が続きもする。
「カムサツカで会う人々はアミシヤツカ(島)と違って服を着ていたそうだ。靴というものを履いていたそうだ。
お殿様の前で光太夫は、麦粉、乾魚を食べた、最初にこそ口にしなかったが、オロシヤ人と同じように牛の肉を食うようになったと語った。
そこで凡そ一年が経った。知り合うことのできたカムサツカのオロシヤ代官は光太夫に、都へ行って皇帝に訴えれば帰国の望みが叶うかもしれないと教えたそうだ。
また、知ることが出来たカピタン(テモへ・ヲシポウィチ・ホッケイチ)が川を上ってチギリとかいう所に行くと知って、一歩でも都へ近づければと六人が一緒にチギリ、ヲホツカ(オホーツク)に向かって出発したのだそうだ。六月も半だったそうだ。
ヲホツカから次のヤコーツカ(ヤクーツク)までロシアの里数で数えて千十三里。ヤコツカから次のイルコッカ(イルクーツク)までが二千四百八十六里。お殿様の前ではその行路についてのお話は出なかったが、後に聞けば凄い長旅ぞ。
オロシヤの一里は、日本の一里に及ばずとも聞くがの。
(後に日本の一里は凡そ四キロ、ロシヤの一里は凡そ三・六キロと知る。桂川甫周著の北槎聞略に計算式が残されている)
九月の始め(九月十日)だったかの、ヲホツカを出発してヤコーツカに十一月も二十日頃に到着したとか。今、手元に書き控えた記録がないゆえ出立も到着も定かではないが、教えられたではその前後ぞ。
途中から馬、橇を使い、日本では考えられぬ厳しい寒さとの戦いになったという」
「そのような旅を何故に光太夫達は出来たのでしょうか。
金銭は所持していなかったと思いますが・・・」
「うん、それよ。後に聞いて驚きもした。
租税制度があっての。それは何処の国でもあることだが、オロシヤではその租税の中から一部の金を遭難した民のために使うと決めてあったと言う。己の国の民に限らず、(日本の)津軽や南部の漁師等が遭難してオロシヤ領内に入り込むことがあってもその漂流民のために税を使う。救済金を貯蓄しておったそうだ。
ヲホツカ(オホーツク)でも、ヤコツカ(ヤクーツク)でもオロシヤの代官が滞在費、生活費に、旅の支度金や旅費等に当たる金子を呉れたのには驚いたと言っておった」
「この日本ではとても、とても、考えられない策にございますな。
他の国の者と知ればお縄(捕縛)にするか、追い返すかですからの」
士業殿の言葉に吾も同感なれど、先を聞きたかった。
「十二月の半ばにヤコーツカ(ヤクーツク)を出立。
気候は極めて寒く、皮の衣を着て、皮の頭巾を被り、狐の皮だという手袋をして、鼻より下もまた覆い隠したのだそうだ。
そうしなければ血脈が凍死してややもすれば耳鼻が脱落し、頬は爛れると教えられ、光太夫はゾッとしたと語った。