「驚いたよ。お殿様がお休みし、昼食を取った後の直ぐの質問の時だったからの。
オロシヤは日本のことをどれ程知っているかと、吾と同じ訊問役、書き控え役を仰せ付かっていた高井殿が質問した時のことだった。
殿の後ろで越中侯と共に控えていた遠江守殿(加納久周、伊勢八田藩第三代藩主、松平定信と共に寛政の改革に当たった)も、またお供衆お二人方も吾の方(顔)を見もしたよ。
引見の場に呼び出されたのは船頭、大黒屋光太夫四十三歳と、磯吉なる水夫、二十九歳だ。
根室に帰って来た時にはもう一人、小市という水夫が居ったそうだが今年の春(寛政五年四月)に亡くなったと聞く。
気の毒にの。
光太夫も磯吉も長くなった髪を三つ編みにして、オロシヤの服を着ておった。その服の上に吾らが着る羽織のようなもの、筒袖の有る外套を身にしておった。
光太夫は紫色のメリヤスを着てその上に緑がかった服で、磯吉は白いメリヤスの上に浅黄色の服だった。
二人は膝下まである黒い革製の靴を履き、光太夫は異国の刀を右手にしていた。勿論、(刀は)お殿様の前に出るときは預かり物じゃ。
磯吉は見たことも無い大きな黒い笠(帽子)を手にしていた。
二人の姿は長崎屋で阿蘭陀人を見た時と同じようなものぞ。また、異国の書にも見たことのある異人の姿そのものだ。
お殿様の面前に出るにあたって誰ぞがそのような姿形にせよ、オロシヤに居った時の正装にせよと予め指図したものに御座ろう。
お殿様の面前の白砂に二人のために用意されていた床几も有ったればそうと思われる。お殿様と二人との間には御簾が垂れ下がっていた。
また、その場のお供衆は美濃守殿に主膳正殿で御座った。
光太夫も磯吉もメンダリーとか言うものを首にしていた。女帝から賜った品だそうで、光太夫は紺のリボンの付いた金牌、磯吉は浅黄色のリボンの付いた銀牌を胸前に垂らしていた。
(参考図ー早稲田大学図書館所蔵。大黒屋光太夫と磯吉)
聞けば二人は、帰国に当たってそのメンダリーの外にも装飾のある時現(自鳴計)や煙盆等を女帝から頂いておる。
帰りの費用として金、銀のオロシヤ硬貨を金一桶、銀一桶をも賜ったのだそうだ。日本では考えられないことぞ。二人自身があっけにとられたと申しておった。
光太夫が言うには、遭難したのは天明二年(一七八三年)十二月じゃ。白子浦(現、三重県鈴鹿市白子町)を出航した神昌丸は紀州藩の藩米等を江戸に運ぶ御用船だった。荷は外に江戸の商人に届ける木綿や畳、薬となる草木、鉱石等だったそうだ。
出航したその夜に駿河湾沖で台風に遭遇し、大時化のため遭難。それから漂流すること凡そ七、八カ月。オロシヤに属するアミシヤツカという小島に七月になって漂着した。
船頭光太夫はそのことも、オロシヤで見聞きしたその後のことも、女帝との謁見のことどもも実に丁寧に日記に書き留めている。オロシヤで知ることのできたオロシヤ語も、人も、街並みもだ。
それで今に、彼等の住まいに充てられた雉子番町橋門外の方に通っておる。
世界を知るに、これほど貴重なものはあるまい」
先生も士業殿も吾も思わず頷いた。
「お聞きしているだけで胸が躍ります。
吾もその大黒屋光太夫や磯吉に会う手はずは整いますでしょうか?、
是非にオロシヤの言葉をも学びたいもので・・・」
「思いは分かる。今すぐにとは約束出来ぬが、いずれ其方も光太夫達が所に訪ねることが出来るように算段してみよう。
諸々のことを聞いておるが、聞けば聞くほどに貴重な体験、事実と理解しておる。
二人の見てきた世界は吾らの想像をはるかに超えている。極めて貴重なものぞ。日本の後々のためにも、光太夫、磯吉の知りえたことども、入手した品々等を細々書留め置かねばと思っておる。
凡そ十年ものことなればここで話すのも長くなるが、ことが他言無用のことじゃ。
耳にしたことはここに居るお三方(杉田玄白、、杉田伯元、大槻玄沢)に留め置かれよ」
三人が同時に頷いた。
