八 江馬春齢と士業(杉田伯元)の願い事

 いやはや、何時に何が起こるか分らないのが人の世だ。引っ越してやっとに荷物を片付け終わったばかりというのに、湯島から出た火が日本橋まで回った時は背筋も凍りつく思いがした。

 生活していく金とても底を突いているのに新しい家が類焼したら、また、永年掛かって集めもした蘭学書、洋書を焼失していたら吾とて足腰立たない大打撃だった。

(十月二十五日、湯島の松平雲州候(出雲松江藩、第十代藩主、松平治郷)の別宅から出た火が、神田(へん)本町(もとちょう)(現、神田学生街、古本屋街辺り)から日本橋まで覆い尽くした)

 先生が宅は被災した。されど、先生にもご家族等にも怪我なし、書籍も失うことが無かったとお聞きした時はホッとした。

寄宿生の手がこれほどに役立ったことは今までにないと疲れたお顔に苦笑いの先生だった。煤けた顔をした士業殿だった。

 それからに、神田も須田町辺りに明地(あけち)が出来ると噂を耳にした。また、今後の類焼の防止(火除地)と非常時に備えて籾蔵が整備されるとの瓦版に、遅まきながらの施策とあっても頷ける。

 それで、ホッとしたのもつかの間、安岡(安岡玄真)の面倒を見ていた(みね)(しゅん)(たい)先生の訃報だ。(寛政五年十一月九日没)

安岡のこれからのことを考えねばなるまい。嶺先生からお聞きしていただけでも彼の勉強ぶりに感心していた。

 明卿に国学を習い、その素養があるうえに和蘭にかかる知識、翻訳の力を得んと夜を惜しんで机に向かっている、その姿には驚いているよと、先生(嶺)に会えば、いつもお聞かせ頂いていた。

 かつて明卿に、其方も塾を持ったのだ、書生の一人ぐらいは持てと推薦されたのが安岡だ。京から出てきて勉強の(かたわ)ら世話してくれる人を探していると言われたけれど、吾の所は寄宿生を預かるほどの家作(かさく)にもあらざれば、空いている部屋とて無い。

年若い女子の使用人もいる。また、身体がそれほどに丈夫ではない妻や子のこと等も考えて彼の身を嶺先生にお願いした経緯(いきさつ)もある。

 ここは、法眼様に頼るしかあるまい。彼自身、法眼様のお側にあれば蘭学修行も引き続き出来るほどに、きっと法眼様の翻訳等を助ける身になると思う。それが出来る安岡だ。

 

 良い話は、先日に良沢先生の所にお寄りしたときにお聞きした江馬殿(江馬春齢)の事と、先生(玄白)が宅での士業殿の提案か。

「四十五歳にして蘭学を学びたい。ご教授下されと来た時には、即座に其方(玄沢)が所に紹介しようと思ったよ。

 だが、解体新書を知って衝撃を受け、以来十数年、ずーっと杉田玄白、前野良沢に学ぶと決心していた。やっとに江戸入りが叶いましたと聞いた時には、吾自身が和蘭医学を教えようと思い直したよ。

 たまたまに来て居った司馬(江漢)が、年齢(とし)は関係ない。十年余もの間その思いを抱いていたのには感服すると、江馬殿を前に吾の思いを先に口にしおった。

 江馬殿は美濃(みのの)(くに)大垣藩(おおがきはん)(藩主は大垣藩第七代、戸田(とだ)(うじう)(のり)、当時、幕府老中の一人)の藩医じゃ。

 藩候のお供で来たとて二年は江戸に居られる、藩邸(呉服橋御門内、現、東京都中央区八重洲一丁目)から通えるとのことじゃった」

 小春日和とて、このまま帰るのはもったいないと吾が宅を通り過ぎて浜町まで足を延ばした。

お聞きしたばかりの江馬殿の事もお耳に入れておいた方が良いとの思いもあった。

 後、一刻(約二時間)もすれば日が暮れるかと思いながらに門を潜った。