六 林子平の死、高山彦九郎の自刃

 八月も半ばだと言うのに、しとしとと降る雨は止まぬ。長梅雨と言うのか。ご無沙汰していた工藤様の所にお寄りした。

 江戸における吾が父だ。様子伺いは欠かせない。

「雨続きの上に夏風邪が流行ってもおりますれば、お身体の方は如何でしょうか」

「うん。何時も心配を頂いての、感謝しておる。

 何、吾のことも、また家族にも変化はござらぬ。

 仕事の方は如何じゃ。順調か?」。

「はい、塾生の集まりはまずまずですが・・・、

 経営の方はと見れば思うようにはいかぬもので」

「そうよの。己の思いが世間一般、市民にそのまま伝わるとは限らんからの。

 入って来る金は別物じゃ。生活を建てると言うのは何時の世も厳しいものよ。

 ま・・・、生活が出来ておれば、何事も無きは良きこととも思っておる。

 そういえば、藩邸に出て耳にしたか?・・。

 国許から聞き及ぶことにも驚くことばかりじゃ」

「何か、変わったことでも・・越中侯(白河侯、松平定信)がごとは国許に非ず・・・」

「うん、白河侯の御役御免に驚きもしたが、子平(林子平)じゃよ。

 蟄居の身にあると前に話したの」

「はい。仙台にて実の兄に当たるお方(林友諒(ともりょう))の処とか。

 版木を自ら彫って居るとお聞きして驚きもしていましたが・・・」

「その子平よ。十日も前になるかの、亡くなったと伝わってきた」

「えっ?」

「享年五十六歳とよ(寛政五年七月二十八日没。西暦一七九三年九月三日)」

「何時にか、事前に己の心境を書き留めていたらしい。

 その句を知って涙が出たよ。

『親も無し、妻無し子無し版木無し、金も無けれど死にたくも無し』、だとよ。

 仲間からの状(手紙)には、自ら六無斎と号していたとあった。

(林子平の墓は仙台市青葉区子平町の龍雲院にある。昭和四十二年、それまでの住居表示が半子町から林子平の墓があるとて子平町と改められと記録されている。宮城県史)

 それで驚いているところに、今度は良沢が処に寄ったときよ。

 江戸に来れば良沢の所に泊り込みもしていた高山彦九郎殿。

 覚えているか?」

「はい。先生(良沢)の所で一度お会いし、酒を飲み交わしたことも御座います。

 腰の低い方で、諸国を色々と歩いている方と覚えて御座います」

「その高山殿よ。九州も久留米の医師・(もり)()(ぜん)殿宅の一室で切腹したとのことじゃ」

「はーあ?」

「何があったか知らねど・・・、良沢に聞いて唖然としたよ。享年四十六(歳)とか。(寛政五年八月四日没。西暦一七九三年九月八日)

 吾も年齢(とし)じゃで死は恐れぬが、関係のあった人の亡くなったと聞けば寂しいものよ」

 工藤様ならずとも、吾もまた高山殿に何があったのかと思う。高山殿は今の世に危険な人物とも噂されていた。侍(将軍)の世に代わって天子様(天皇)の世を迎えねばと説き、人に貴賤はない。皆平等なのだとも語っていた。

良沢先生も、今は亡き良庵殿も吾も、彼の語る一説に耳を傾けたことがある。蘭学を学ぶ者がそう思っていても、ご時世がご時世で口に出来ないことでもあった。

 高山殿は栗山先生や(かん)(せん)(岡田寒泉)殿、服部(はっとり)(りっ)(さい)殿とも交流があるとお聞きしていた。

(栗山は柴野栗山。岡田寒泉も朱子学を奉ずる儒学者で昌平黌の教官。服部(はっとり)(りっ)(さい)も儒学者。江戸市中の築地で家塾を経営していたが寛政三年、昌平黌付属の麹町教授所(幕府設立)の学頭となった)

 また高山殿は大阪や京(京都)に在っては頼春水殿、木村兼葭堂等とも交流があるとお聞きしていた。()()岩倉(いわくら)具選(ともかず)殿と特に親しく、その岩倉邸に長く滞在していたともお聞きした。

 吾は全国津々浦々諸国を巡っている人と第一に覚えているが、先生も良庵殿も、また吾も、高山氏の考えに大いに関心があった故に、一体、何が有ったのだろうと思いが行く。

 さしていた傘から雫が右肩に当たった。思わず身を縮めた。