「先生から」

右手の手を開き、一礼して蘭化(前野良沢)先生を促す玄白先生のお声だ。蘭化先生が頷いて立ち上がった。

「皆良く集まってくれたの。

 この席の労をとった子煥(しかん)((玄沢)殿、伯元殿に先ずはお礼を述べる。

 皆も知っての通り蘭語は長崎じゃ。出島じゃ。吉宗公(徳川第八代将軍、徳川吉宗)は、野呂元丈殿、青木昆陽先生に江戸参府で来る阿蘭陀人等から蘭語を学べと命じた。元文5年(千七百四十年)の頃のことぞ。

 一介の浪人の身に在った昆陽先生は、共に儒学を学ぶ友人、町奉行所の与力の身に在った加藤又左衛門殿の推挙により、当時のお奉行様だった大岡(おおおか)越前(えちぜん)(のかみ)忠相(ただすけ)殿(南町奉行)に取り立てられた。何が幸いに至るか分からんのが人生ぞ。

 それから享保の大飢饉(享保十七年、一七三二年)の折、民を救う食べ物として甘藷(サツマイモ)の栽培を吉宗公に上奏した。

それで多くの民を救った。人知れずの常日頃の勉強が功を奏した。

 幕府の書物閲覧を許されるまでになった青木先生は、蘭語を学べとの命を受け、その後に、短い間と雖も長崎表まで行って来た。

 実に四十(歳)過ぎになってものことぞ。学問を志すに年齢(とし)は関係がない。

先生は阿蘭陀人や大通詞吉雄耕牛殿に学び、また江戸に帰っても労苦を惜しまず勉励した。そして、凡そ三千もの和蘭(単)語を理解できるほどになった。

 吾はその昆陽先生に教えを乞う機会を得た。中津藩の奥平侯(豊前国中津藩、初代藩主・奥平(おくだいら)(まさ)(しげ))の(おおせ)でもあった。

異国の本の(もたら)()(えき)は吾の想像を超えていた。和蘭の教える物は医学医療に限らず、あらゆるものが有用だと、今に其方達も知ったところで御座ろう。

 吾等の中でいち早くそれを知り先を行ったのが、亡くなりはしたが平賀源内であり中川淳庵だった。

今や蘭語を学ばねばとの教えは江戸市民ならずとも諸国の民の間にも行き渡っておる。

 市民のため庶民のため、異国の教えを生かすも世を豊かにするも其方達のこれからの取り組みぞ。

この分野は吾にまかせろ、吾こそはと、それぞれに翻訳の力を大いに高めるが良い」

 蘭化先生は先人を称えた、そして、後に続く皆々に期待を寄せているとのお言葉を残して挨拶を終えた。

己の功績ともなる「和蘭(おらんだ)(やく)(せん)」等のことも、また「東察(かむちゃ)加志(っかし)」や「(おろ)西亜(しや)本紀」など北国に係る事も話さなかった。まるで古武士のごときと言ったら可笑(おか)しいか。今の世に阿蘭陀語を解し翻訳するは豪傑ぞと語った清庵(建部(たけべ)(せい)(あん)(よし)(まさ))先生を思い出しもした。

 続いて皆々の前に立った玄白先生だ。思いもしていなかったこの席だと、良沢先生同様に最初に士業殿と吾に感謝の言葉があった。それから、今に大坂に在る(小石)元俊殿のことを交えてのお話だった。感心させられたのは言うまでもない。

「今更言うまでもないことだが、医業医術、本草(学)を修めるは人のため、世のためにある。

 それは漢方に学ぼうにも蘭方に学ぼうにも同じだ。

 病を得た者の回復のために治療の方法の最善を(さぐ)るのも、より効く本草を探すのも吾ら医者の役目だ。

 五、六年前にも成るか、我が所に来た小石元俊殿ことは皆々も聞き及んでおろう。古医方の大家だ。師とは吾が国許(くにもと)、小浜藩からの帰りに京において漢方、蘭方の教える医学医術について意見を交わした。

 その後に、師がこの江戸に尋ね来て、短い期間の江戸滞在では有ったが吾と度々に意見を交わした。

師は今では京都、大坂で蘭方の教えるところに重きをおいて患者を診ていると聞く。また、上方の和蘭医学医術の普及拡大の先頭に立っている。古医方の大家がだぞ。

 そして、和蘭医学の教えをより理解せねばと、年齢(とし)の行った己に変わって蘭語を修める者をと、そのために橋本宗吉なる者をこの江戸に送り込んでさえ来た。人材の養成を頼んできた。

 玄沢が所で翻訳の仕方を学んで帰った橋本が、今や、師、小石殿共々、医療分野に関わらず上方に蘭学の教えるところを一層普及拡大させんとしている。

 ここにおられる皆様にも国許(くにもと)がござろう。帰郷した後に、是非に蘭学の振興を図って下され。

日本(ひのもと)の世の有り(よう)は今後大きく変わりもしよう。それが民のためにも良き事と思っておる。

 その余録に、仕官も出世も有りうることじゃ。先に利ばかりを求めてはならぬ。この年寄りの願いと、少しばかりの苦言を申し上げた。長話は嫌われもするで、この辺としよう。

 皆々のこれから先の丈夫と活躍を祈念させていただいて、挨拶とする」

 一同の中から少しばかりの笑いが漏れたが、良沢先生の時と同様に大きな拍手だ。

吾は、お上の情報にも詳しく、今の世の変わりゆく姿を先に見た先生らしい御挨拶だったと思う。

 

 士業殿も吾も二師の寿ぎの宴は満足だった。参加してくれた皆々がどのように受け止めてくれたか推し量ることは出ない。

しかし、師お二方に笑顔が有ったのは何よりだった。

 師走も半ばを過ぎ、年の暮れも間もなくだ。早々に年末の挨拶をと先生宅を訪問した。

「先日には世話になったの。

 二人の席としてくれたは、其方の考えと、後に伯元から聞いた。有難う」

「いえ。何の。今や、蘭学の大御所と言えば先生に良沢先生。

 お二方の偉業と仲の良さを改めて知っていただきたいとの小生の願いもございました。大成功にござったと思っております」

「それで良かったのじゃ。あらぬ噂を打ち消してくれたからの」

 先生のお言葉に嘘はない。吾に向けた満面の笑みがそれを表わしている。

「目出度い事があっての。先の十二月六日に、伯元が酒井侯(小浜藩)の御屋敷(ひかえ)、その外、御用向き(あい)(つとめ)の身となったのじゃ。

 外科に加えて内科をも兼任することになった。

 俸禄も七人扶持だと」

 先生の、これで一安心じゃ、の最後の一言に実感がこもっていた。

 

[付記]:次回から、第14章 寛政五年になります。