九 杉田玄白の百鶴図

 訪ねれば、またまた解体新書の翻訳はその後如何(どう)なっている、何処まで進んだと問われるのは必定。その答えを思案しながら先生宅の門を潜った。

 呼ばれてこんなに嬉しいことはない。士業(伯元)殿が是非にもと誘ったのは分かる。先生は、今日(九月十三日)に還暦を迎えたのだった。知らなかった。

 先生は、吾は虚弱な身体(からだ)だと度々言いながら、何の、何の少しもお年齢(とし)を感じさせない。

(まつりごと)に大いに関心を示す先生は、世の中が変わる、必ずその時が来ると今も門下生や自分が関係する和蘭通詞を諸藩の侯に売り込んでもいる。

 先生も吾も()(らん)西()に革命なるものがあった、市民の蜂起があった、世の中が市民の政治に変わったと聞いている。その中身は詳しく分からぬが、世界地図の普及とともに異国の政治の有様もまた気になる所だ。

 出島に出入りする者等によって世界の動向が知らされる。商館長等の江戸入りが四年、五年に一度で良いとなったのも、現状維持、今の世にしがみつく幕府のお偉方の思惑と関係が無くも無かろう。

 司馬殿の世界地図が版元の間に評判に有るとご報告した。また、気にもなっている先輩(司馬江漢のこと)と吾の間柄のことどもも、吾に対する批判のこともお話した。

「何、其方(そなた)が気にするほどの事では無い。

 奴は己の物にした絵やその地球図等をもって越中候(白河侯、松平定信)に相伺(そうし)していると聞くが、相手にされておらん。

 地図もさることながら、今に地転(地動説)を説き、あたかもそれが日本における吾が最初と言うているらしい。

 長崎に行って来て其方も知っておろう、通詞の本木殿(本木良永)や志筑殿(志筑忠雄)等がとうに異国の書に学び、地転を言っておる。

 江漢の大法螺(おおぼら)虚言癖(きょげんへき)は治らぬよ。彼の生一本気な性格は良しとして、見栄っ張りで、虚言をもって人を(おとし)める性格を知っておるゆえ吾とて何処にも推薦は出来無んだ。

石井庄(いしいしょう)(すけ)(馬場清吉)や森島中(もりしまちゅう)(りょう)と同じに吾も白河侯にお抱えしてもらいたいとここ数年望んでいるらしいが、無しのつぶてよ。

 それにとどまらず、自ら己を売り込んでおきながらお取り立て(採用)が決まらぬとあれば、何かにつけて越中侯の悪口を吹聴していると耳にしておる」

「それぐらいに致しましょう。

 子等も()りますし、今日はお祝いの席にもございます。

 江漢殿のお話はそれぐらいに致しましょう。

 玄沢殿、今や、お義父上(ちちうえ)の絵は玄人はだしにございます」

「うん」

 話題をかえようとする士業殿(杉田伯元)の一声に、頷いた。

 先生宅の隣には雪渓(橋本雪渓。別名、宋紫石)が住む。雪渓殿の手ほどきを受けている先生の絵はこれまでにも何度か目にしている。士業殿が言うように、今は確かに師の絵を思わせるほどだとも思う。

先生はニコリとした。

「今日のためにした物よ」

 披露されたのは極彩色の絵だ。

「おおー」

 吾ならず場にいた皆々が驚嘆の声を発した。

「鳥、白い鳥、一杯」

 言葉にした四歳になる(ふじ)殿はその次の言葉に、赤い。頭のてっぺんが何故に赤いと指をさす。

丈は三尺五寸もあろうか、幅は一尺八寸か。大幅(だいふく)である。深山(しんざん)幽谷(ゆうこく)、谷川に群れを成す丹頂鶴の生態が遠近、動静を織り交ぜて描かれてある。

 あるものは谷川の流れの浅瀬に立ち、様子を伺いながら小魚を(あさ)ろうとしている。また、岸辺の岩に羽を休めながら流れを覗き込んでいる鶴、遥か彼方の空に目をやる数羽。滝の飛沫を浴びながらも対岸に渡ろうと羽を広げた鶴。

松の(こずえ)や岩に降り立とうとする鶴もあれば、谷間から遥か彼方へ列をなして飛び行く一群などが()かれてある。(参考図)

「あたかも、一声鳴いて飛び立った一群のように見えますな」

 お世辞ではない。吾の言葉に、そめ(・・)殿の頭髪をなでていた奥方(伊予)様が頷いた。満足そうな顔をした先生だ。

先生は居並ぶ皆の前で、「寛政壬子(みずのえね)六十(はつ)年度、製百鶴図与児孫)」と賛を認め、()(さい)の印を押した。

(製百鶴図与児孫は、百鶴図を描き、子や孫に与えるとなる。この時、伯元(はくげん)二十八歳。(せん)十九、八曾(やそ)十二、後妻伊予(いよ)との間に生まれた立卿(りつきょう)七、(ふじ)四、そめ(・・)二である。この時点で、孫は居ない。

 初孫は二年後の寛政六年、伯元と扇との間に生まれた杉田(すぎた)(きょう)(けい)である)

 

[付記];杉田玄白の百鶴図を手元に見ていますが、著作権や保管管理の上で何処から使用許可を得たら良いのか分かりませんので、参考図を割愛させて頂きます。