六 弟、陽助(大槻玄良)の訃報
降りやまぬ雨に気も塞ぐ今日この頃だ。早やくに梅雨が明けぬか、開けぬかと思いながら忠明の作にも、蘭書にも目を通した。
もう、そろそろに夜も明けるか。
横にならねばなるまい。今日の教壇に寝ぼけ眼では塾生に申し訳が立たぬ。吾にもいささか覚えがあるが、皆、己にとって大きな負担にもなる月謝を払って来ているのだ。
眠る前なれば、気を緩めるのに良かろう。仕事が忙しいとて二日も封を切らずに置いたか。上様とある状(手紙)は、裏に大坂も小西殿からと伝えている。
開けて吃驚だ。時候の項も無く、弟、陽助と思われる御仁をお初天神傍の裏長屋で発見したとある。だけど、驚きも喜びもそこまでだった。
(一昨年の秋の取材旅行で見た、お初天神に有った絵図です。今日にも近松門左衛門の作品に感銘を受ける人、恋の成就を願う人々の訪れる天神様として親しまれているそうです。)
次の行に、弟御と思われし方はお亡くなりになって何日かに経って発見されたとある。
弟と推測されるのは、残された行李の中に大槻玄梁様に充てた手紙が残されていた。
「玄梁」は確か大槻様のお父上に当たるお方ではなかったか、と認めてある。
お父上は一関藩の藩医だった、大槻玄梁という名のお方だったと聞き覚えて御座いますが間違いないでしょうかとある。そして、その状の差出人に吾の名(玄沢)を確認できたとある。持つ手が震えだした。
また、行李の中に絹物の羽織、紋は万字、単衣の着物が良くに畳んであった。その上にあった刀の長さが二尺三寸、脇差一尺四寸、人相書きの大小と一致すると有る。
夏も近いこの時期なれば、先日に、懇ろに葬儀を執り行ったともある。
間違いは無かろう。陽助だ。読むほどに身体が震えだした、涙が頬を伝い出した。震えも涙も止まらない。
馬鹿な。陽助、何をしていた、何故に吾に手紙を寄越さなかった、何故に吾を頼らなかった。兄弟は俺とお前だけだぞ。
寝るどころでは無い。今すぐにも大坂に飛んで行きたい。飛んで行ける所に無い・・・。
妻も使用人も寝静まっている中、表に飛び出た。
陽は昇らずとも周りは既に明るい。雲の切れ間を窺える西の空に向かって合掌した。
吉に母上、そして陽助。この一年余の間に身内三人の死。
そんな馬鹿な・・、そんな馬鹿な・・。身を切られる程に痛く悲しい。涙が止まらない。
(大槻陽助の遺体は小橋の伝光院に埋葬されたと伝わる。小橋は小橋町のことで現、大阪市天王寺区内の一つの町名である。しかし、伝光院は今に何処のお寺のことか不明である)
大槻陽助、出奔して凡そ一年半。大坂で各死(病死)。享年二十五歳と記す。
七 工藤様の奥方の死
喜びも悲しみも何があっても時は廻る。林哲(忠明の花押、堀内忠意)が書き寄越した金創金函の添削をした。八月三日と認めて返信した。
(米沢医師会編集、米沢上杉博物館所蔵の堀内家文書には堀内林哲が和蘭医学医術を直に学んだ大槻玄沢、杉田玄白、杉田伯元だけでなく、司馬江漢等との書状も多く残されている。また、林哲の子、孫等と玄沢や玄白の子、孫等との間の書状も収録されている)
転変地異は何時に何が起こるか有るか人知の及ぶ処では無い。今日の瓦版は島原大変、肥後迷惑の見出しだ。
遠く肥前国島原半島で火山(雲仙岳)が爆発、山が崩れ津波が人の命を奪った、その支援と救難に肥後国までがてんやわんや、大変なことになっていると告げる。
かつての浅間山の噴火で大川にまで人馬の死骸が流れ着いたことが思い出された。
瓦版を手に小門を背にしたところで大槻様と声をかけられた。振り返り見れば、確か工藤様の所に出入りしている者だ。
「大槻先生でございますよね・・・。工藤先生にお言伝を預かって参りました」
言葉にせず、頷いた。
「昨日に先生の奥方様がお亡くなりになりました。
お世話になったなと、お伝えてしてくれとのことでございました」
若者の顔を直視した。驚きもした。
何カ月前かの工藤様のお言葉を思い出した。覚悟はしていただろう。やり場のない悲しみを、伝言一つを以って吐露している。
肩を落とした愛妻家の工藤様が思われた。五十(歳)ぐらいだったか、まだお子が小さいゆえ故人はこの世に心残りだったろう・・・。
他に用事もあるだろうと若者を先に帰し、急ぎ喪服に着替えた。
(工藤遊、享年五十一歳、四女拷子八歳、五女照子六。次男源四郎十九、長女あや子三十の九月末の事であった)

