第十三章 寛政四年
一 馬場清吉の祝い事
寛政四年(一七九二年)の世が明けた。新年の挨拶回りも一通りに終えた。
今日の瓦版は、去年の暮れにも聞いた、町会所の七分積金制度が開始されたとある。それ以外に大きな話題になる情報が無いと言うことか。
政に疎いけれども先生の影響もあるのだろうか、吾は近頃、御上の打つ手は次に何ぞやと瓦版に情報を求めている。
白河侯の打つ施策にも、また侯と異国との関係にも関心が行く。
瓦版が伝える事の真贋は如何ほどかと思いもするが、先生みたいな情報源があるわけでもなければ瓦版を信じもする。
兼葭堂や耕牛殿が奢侈を追求されたり、長崎に在る通詞達が捕えられたり処分を受けたりしているのを知れば知るほどに、白河侯は世の移り変わりをどう見ているのだろう。天文、地理、測量分野等々江戸市中に広がる蘭学の教えを如何捉えているのだろうと大いに気にもなるのだ。
その折もおり、先生からのお声掛けに訪ねてみれば、先生の情報にまたまた驚き桃の木、山椒の木だ。
「年始に会いもしたけどその時にはまだはっきりとしてもおらなんだ。
それが本当に決まったとて其方に一番に伝えておかねばと思って呼び立てもした。
(天真)楼の皆々が和蘭語を学ぶに世話になっているあの石井恒右衛門、馬田清吉殿じゃが、此度、白河侯にお仕えする身に本決まりじゃ。
また、伯元や其方等と駒場の御薬園を見に行った曽生殿(曽占春、医者、本草家)じゃが、薩摩藩、島津公(島津重豪)の侍医兼記室(秘書)になるとお聞きした」
「えっ」
馬田清吉殿が士格になる。お聞きして長崎の通詞仲間達に驚かない者はいないだろう。
「吾も嬉しいが、其方と一緒に江戸に来た馬田殿ゆえ彼の喜び事は其方に知らせねばと思っての。
住むところは引き続きこの江戸とお聞きした。
(天真)楼で引き続き(蘭語の講義等の)お力を借りることも出来る」
石井殿には吾の所(芝蘭堂)にても蘭語の教鞭をとってもらいたいと思うが、いかんせん塾生が少なすぎるのだ。
寄宿舎に寄り馬田殿に祝辞をと思ったが、この時刻、楼に出かけているとの事だった。
吾は、皆々の処遇が良い方に向けばと思う反面、羨ましくも覚える。仙台藩の身に有るよりも今のご時世により期待されている人でありたいとも思うのだ。
そしてまたまたに、先生は解体新書の改訂はその後進んでいるかと問う。先生には牛歩の歩みに御座いますと、素直にお応えしてきた。
吾は翻訳専一、気を取り直して文机に向かってもいるが、この冬も流行り病は猛威を振るっている。
患者から病を貰わぬようにと往診に出かけるにも注意をして居るが、家族、使用人の行動まで監視が行き届かざれば感染を防ぐことは出来ない。
何処で貰って来たのか分からぬが、お富もお京も、そして母上も陽(陽之助)も揃って熱が有る、体がだるいと枕を並べた時にはさすがに参った。
通いのお通さんだけが頼りだった。
二 稲村三伯の入門
二月十四日、昼前。京(京都)に在ったという稲村三泊殿が芝蘭堂を訪ねてきた。
身なりも整い、総髪にし、見るからに医者だ。先ずは拙宅に上がってもらった。
「稲村三泊と申します。因幡国鳥取藩の藩医にして、今に丸の内大名小路の上屋敷内(現、東京帝国劇場、国際ビル辺り)に御座います。
前に、藩侯のお許しを得て京(京都)に在り医学の修行に勤めていたところでござるが、そこで大槻殿の蘭学階梯を目にしてございます。
大いに感銘を受けました。入塾したい一心でこの江戸詰めを希望して、漸くに上ることが出来申した。
四十俵五人扶持だけの(藩)医の身に在るが、是非に芝蘭堂に入らせて頂きたい」
聞けば、宝暦八年の生まれで吾より一つ下(三十四、五歳)。かつて長崎に遊学し、蘭方を学んだとも語る。
そのままにして置くのはもったいない。きっと何かを物にする御仁だ。即刻に、明日からにも通いなされと許可した。
早稲田大学図書館所蔵。大槻玄沢が芝蘭堂に入塾する者に読んでいただいた「載書」及び玄沢の「門人姓名簿」の一部。
国の重要文化財。
[付記]新年あけましておめでとうございます。亡くなった友人に背中を押されて始めたブログ投稿も、3回目の1月3日を迎えました。初心に返って書き続け、投稿していこうと思っております。本年も宜しくお願い致します。
なお、絵図のスキャンやアップロードに不慣れな小生です。関係機関等から折角に使用許可を頂いた資料も皆様に披露するに時期がずれることが御座いますがご容赦願います。

