カ 堀内林哲、、宮崎元長との別れ
陽助のことばかりに捉われてはいられない。会うは別れの始めとは良くに言ったものだ。
分かっていることと雖も、入学盟記に従う初めての塾生だったればこの別れに特別な思いがある。
士業と話して、二人の送別の席を日本橋も小料理屋に設けた。夏の盛りが過ぎた夕刻とても汗が出るほどに外はまだ暑い。
「大変にお世話になりました。
米沢に帰りましても仲間のために、民のためにも教えていただいた和蘭医術、医学を生かして参ります。
この二年、蘭学は天文、地理、測量等から物作りや生活の有様まで多くを教えていると知り、まさに驚くことばかりでした。
宮崎(宮崎元長)共々、蘭学の教え、西洋の教えを藩内にを広く普及させていきます。真にありがとうございました。
今後にも教えを乞うことも御座いますれば、状(手紙)を認めさせていただきたいと存じます。その節はお許し下さい。
また、機会があれば先生方には是非に米沢に足をお運び下され。
精一杯御もてなしをさせて頂きます。
吾は、今後に機会あれば長崎表にも行きたいと思っております。
その節にはご相談もさせて頂きますれば、宜しくお願い致します」
「遠慮は要らぬ。お殿様のために同輩のために、民のために医療を充実する。
蘭学の教える良きところを藩内に普及させる。それが上杉侯の思いに報いるものぞ。
米沢に在っても遠慮はいらぬ。知りたいこと聞きたいことがあればその度々に状(手紙)を書くが良い」
「はい。有難うございます」
(一般社団法人・米沢市医師会と上杉博物館の編集・発行(二〇一五年)による堀内家文書に堀内林哲と杉田玄白、大槻玄沢、杉田伯元、江馬江漢等々との交流文書が数多く残されている)
明卿に才助、江戸詰めの佐野(佐野立見)が引き続き塾に顔を出してくれるものの、この二年、塾生が一人として増えていない。(寛政二、三年の芝蘭堂門人帳に新規入塾者の記録無し)
蘭学階梯は評判だ、蘭学階梯が世の中の和蘭熱を一層醸成した。天文を学ぶ者も、地理、測量を学ぶ者も未だかつてないほどに異国の書を漁っている。世間にそう聞きながら、塾の経営とはまた別物なのか。
有馬(有馬文仲、文晁)が亡くなり、米沢の二人が江戸を離れて心細くもなる。己の意気込み、思いだけでは如何にもならない。
かつて、良沢先生が経験したことなのだろうか。いや、時代が違う。良沢先生の頃と違って、今は異国の書(本)も多くに出回っている。奢侈禁止だ、倹約令だと言いながら御上は片目をつむってはいないか。
吾の頭は堂々巡りしながらに色々と考えが行く。