エ 前野良庵の死
吉の死に涙が乾かぬに、良沢先生にも奥様にもお悔やみを申し上げねばならぬと誰が予想しえた。聞いた耳を疑った。
「七月も十日よ。もう速いものじゃて。十日余りも前にもなるかの。
熱いこの時期なればと、疾うに葬儀も埋葬も済ませておる。
吾の所よりも、良沢が所に早くに行ってやれ」
浜町から鉄砲洲まで小走りに急いだ。
額の汗を拭きながらに、何があった、如何して如何してと良庵殿のお顔が再三思われた。
風と共に潮の匂いが迎えた。屋敷の中は今も静まり返っていた。
「奴が、具合が悪いと言って床に横になってアッという間の事じゃった。
小さい時から体の弱い子じゃった、
繊細な子じゃったが、吾も医者、良庵自身も医者。横になって二日目の朝に己が死ぬとは本人とも思っても居なかったろう。
其方も奥方(吉)を失ったばかりとて連絡もせずにおった。
線香の一つも上げて呉れるか」
(言われずとも)当然のことだ。真新しい位牌には葆光堂蘭渓天秀居士と読める。
添える花束も御霊前(包み)も持たずに来たのが、今になって恥ずかしくも思う。
遅くに出来た一粒種の男子(前野達)なれば、先生のお気持ちは如何ばかりか。
「墓は、上野の森、(下谷区)池之端七軒町の慶安寺とした。
時(暇)の出来たときにでもお線香を上げに行って下され。
達も喜ぶでの」
先生のお気持ちを測って早々に退散した。
七十(歳)も近ければまもなくに隠居を余儀なくされる先生だ。前野家を継いで当然に中津藩の侍医になることを(達殿に)期待して居たろう。それだけにその胸中たるや・・・。
長居しなかったとはいえ、とうとう奥方様のお顔も、姿も見ることが出来なかった。
達殿は、歌を良くする母上(珉子、歌人)に習って和歌にも理解の深かった。吾を詩に導き、和歌については先生よりも達殿から受けた影響が少なくない。
先生はお身体の弱い子だったと言うけれど、高山(高山彦九郎)殿の実家(上野国新田郡細谷村(現、群馬県太田市)にも行って来た元気があったではないか。
帰ってきた後に、共に酒を飲み交わしながら旅の楽しさも今の世の中を憂いたのも昨日のことのように思い出される。
また、森島中良殿との事とても思い出される。昨年に森島殿が編纂した「万国神話」に序文を寄せ、吾にも関係する「紅毛雑話」の跋文を認めた達殿だ。
これからもっと活躍される方だと思いもしていただけに早世は残念至極だ。
達殿(良庵)の死は良沢先生の元気も、ご母堂の生き甲斐をも奪ったと言っても過言では無かろう。
他人の命の長短は計ることが出来ない。今更ながらに良沢先生のお歳も、また、先にお寄りして来た工藤様のお歳をも数えた。
オ 弟、陽助の行方
八月初め(六日)もこの月始め(九月四日)も散々な大雨、大嵐だった。
深川も洲崎も、また行徳(千葉県市川市)も船橋((千葉県船橋市)も海辺の人家の大半は海に流れ、死者の数たるや知れずと瓦版だ。
吾が三十間堀とても水も出ればにハラハラし通しだった。
それが今日には残暑が厳しい。表屋敷(上屋敷)に顔を見せて耳にする情報に嬉しくもある。今年は国許豊作だと聞いた。
姫君の診療を終えたら、久しぶりに楼(天真楼)の方に顔を出してみよう。その後に、先生の所(自宅)に寄ってみよう。