駒場御薬園行を明卿と話した通りに夢の中のことと仕立てている。もう、時は四つ半(午後十一時)を過ぎた。
「今晩も、遅くになりましょうか?
何かお腹が空いたときのために支度しておきましょうか」
板戸を開けた吉の顔を見て、休む気にもなった。
「少しばかり休もう。入れ」
ひっくり返れば寝床にもなる煎餅布団の上に吉を誘った。
「今日は十日か、十一か・・」
「あらまあ、今日は十二日になります。
そのように根を詰めてお仕事をされておりますれば日も分かりませなんだ。
お身体が心配にもなります。もう少し自分を大切になさりませ。
私も陽(陽之助)も、またお義母様も貴方様しか頼る柱がございません。貴方様に若しもことが有ったら・・・」
「余計な心配は要らぬ。それよりも、其方ぞ。薬が大分に効いておるようだな」
「はい。様々にお気を使っていただいて有難うございました。
この三年余、夢のようでございました」
「何を言っている。江戸の生活はまだまだに続くぞ。
結婚したとて子が出来たとて、暫く其方達を田舎に放っておいたがゆえに吾の罪滅ぼしじゃ。
これから、もっともっと良い思いをさせてやる。
富士山を間近に見たい、お伊勢参りに行ってみたいと申しておったな。時を見て必ずに其方を連れて行く。
一緒に行こうぞ。陽之助も連れてな」
「天下祭。ええ、山王祭に神田祭。それに深川八幡の祭りに大相撲、田舎では見たことも無いものを一杯見させていただきました。
江戸に上って間もなくに、初めてお参りに連れて行っていただいた浅草寺。あの賑やかなこと。
仲見世の方々も、お蕎麦屋の天麩羅の味も忘れることの出来ないものです。
贅沢にも芝居小屋など、田舎では決して見る事の出来ないものも目にさせていただきました。有難うございます。
陽之助の袴着のお参りは昨日のことのように覚えて御座います。
また、ここに引っ越してきて朝に昼に夕に、行き交う大船小船、荷を揚げる船頭さんや人夫の方々の威勢の良い声。見える景色にも耳にする声にも人の世の楽しさを味わうことが出来ました」
「吉。なんぞあったか?。如何した?」
「女子が口にするは恥ずかしき事ではございますが・・・、
今宵はあなた様のお情けをいただきとうございます」
「吉」
言葉は要らぬ。女子とて情欲が生まれる。化粧の匂いのする吉を抱き寄せた。
何時に寝たのだろう。窓に明かりを覚えるは、この時期、八つ半(午前三時)を回ったはずだ。
吾の左腕を枕に吉のあどけない顔だ。喜悦の声を漏らし、情念に身を焦がしたときと違って穏やかな顔をしている。
吾の少しばかりの寝返りに目も覚めたか。
「陽之助を宜しく頼みます。葬儀は質素に・・・」
うっすらと開けた目は一瞬だった。
「何。如何した。吉。吉。如何した・・・」
左腕を外して、思わず身を起こした。何が何だか分からぬ。
「吉。吉。しっかりせよ」
まさか・・・、背中に冷たいものが走る気がした。
「吉、死ぬな、死んではならぬ。
人の世の楽しさはこれからぞと言ったではないか。
吉、吉。
陽(陽之助)はどうする。
吾は如何すればいいのだ。
吉、吉、死んではならぬ」