そこから野道を十丁(約一キロ)ほども歩いただろうか、法華寺(ほっけじ)だ。(現、円融寺。東京都目黒区碑文谷)

 後門から入る(さま)になった。後姿を見せていたのは釈迦堂だった。境内はやや広く、建物という建物はどれもまた目を見張るほどに立派だ。

 阿弥陀堂には少しばかりの階段を上る。鐘楼も立派な屋根付きだ。

「老衰や長患いに霊験があるとての。

近頃、(あが)め参拝する人も多くこの通り焼香の香り絶えずじゃ」

 独りの老爺が語るのを、皆が揃って耳にした。仁王門があり、左右に黒く塗られた金剛力士像が安置されている。

またその門の左右には客を待つ店が軒を連ねていた。門前ゆえにお線香を扱う店が多い。

一つの店を覗けば、願をかける人々はこれを買い求め、二金剛神に献ずると売り子が言う。

 山門を出ると、左側にあった大木に大きな下駄(草鞋(わらじ)か?)が吊るしてある。

あたかもそれが大きなお札のようにも見えた。近村の者達が作り奉納する物なのだろう。

(夢遊西郊記には、「出前門、左側掛大木履状(・・)、宛如案板而偉大、近邑人所献也従」とある)

 通りすがりの人に、この先、まっ直ぐに進めば池上新田等に至ると聞いた。どうしようかとなったが、再びもと来た道に戻ろうと皆の話がついた。

 後門から出て、しばらく歩いて江戸亭という名の店に寄ることにした。

 来るときに何気なく見た店の旗が少しばかりの風にはためく。明卿が耳元で言った。

「前に来た時に寄った店よ。

中は広くもないがここの小母さんは(すこぶ)る器量良しだ。

他人(ひと)とのやり取りを耳にしたが、頭の回転も速い」

 明卿がこんなことを言うのは珍しい。店に入ると、その小母さんなる人の姿形(すがたかたち)を目で追った。だが、見当たらない。そう気づいてか、明卿が言った。

「酒も美味いし料理も良い。店の中を流れている水は冷たくて美味い」

 案内された縁台に、皆が休息を求めた。

「あの水を飲めば年を延ばすことが出来る、長寿の水と言われている」

今度は明卿が、皆に聞こえるように言った。

 腰が椅子に落ち着かぬまま、皆が店内を滔々と流れる石清水の側に寄った。

暑さのためもあろう、竹で出来た柄杓を何度も口にする者も居る。持参の竹筒や(ひさご)()む者も出た。

 客は吾等の外に二人だけ。ところが、席に戻って注文した酒を口にしても盃が何度か皆の間を回っても、なかなかに酒の肴が出てこない。

 井上だった。(たけ)(さだ)が、ふざけながらに店内に余るほどの声で悪口を叩いた。

「水は美味いがここの酒はどぶ(・・)ろく(・・)だ。

さも田舎で作ったどぶ(・・)ろく(・・)で、すっぱくて苦い。飲めたもんじゃない」

単衣(ひとえ)に赤い(たすき)をして、前掛けもした小太りの小母さんが出て来た。

「あらまあー。この酒は江戸物ですよ。芝の門前、源助街で買って来たもの。

味が良くて芳醇(ほうじゅん)。あなた様のその優れた舌で良く味わって見なされ。

(ぼく)(すい)(隅田川の異名。ここでは酒の銘柄)や男山(おとこやま)(酒の銘柄)に及ばずともこの酒は醸造されたもの。美味(うま)い酒ですよ。

酒の(もつ)魅力を損なうようなものではありません。

さあさあ、思いっきり(はい)を重ねて下され。

賢きお方は、これをどぶ(・・)ろく(・・)とは言わないでしょう」

 寄って来たかと思うと素早く反論し、笑いながらに酒を(すす)める。

 背丈の有る小母さんだなと思いながら明慶を見れば、声にせずそうだと頷く。

 健貞も、あなた様のその優れた舌で判断せよとか、賢き方はこれをどぶ(・・)ろく(・・)と言わないでしょうとあれば反論のしようもない。小母さんの気の利いた受け応えだ。