店主が教えてくれたのは川に沿った細い野道だった。新山と北條、山田の三人は野路(のじ)と知ってその先を怪しみ、くっついたり離れたりする広い大路を行く。

 他は皆、雑草も生える野辺の道を選んだ。川面を右に見て進む。時折、左方に農家らしい家が現われてくる。

 葦や柴で編んだ垣を持つ家も見られるが、殆どは野ざらしの茅葺(かやぶき)屋根の粗末な家だ。風邪に吹き飛ばされぬようにと幾つもの石を乗せた板屋根も目にする。  

 自然の野山に中に溶け込んだ人家の景観だ。青葉を見れば新芽が吹いたろうかと故郷(一関)の風景すらも思い出される。

 煙草を吸う者、その煙を空に向かってぷーと吹き出す者、高歌放吟する者、それに唱和する者、合いの手を入れる者、はては小躍りする者、少しばかりの酒が勢いをつけさせたか。街を離れたこの自然の別天地に酔いもしたか。

 明卿が、この地は桃源郷にして桃なきのみと語れば、皆がそうだそうだと相槌を打つ。

(夢遊西郊記には、此地(このち)、(中国の)()(りょう)桃源(郷)にして桃無きのみと皆語るとある)

 一、 二里も歩いたろうか、橋が架かっていた。赤羽川の上流になるのかと曽生だ。

 橋を過ぎると左右に田畑が大きく広がり麦の穂が風に美しくそよぐ。ヨシキリもまた(くさむら)の中でしきりに鳴き、風に騒ぐ。増々もって野趣を感じる。

 また一里ほども歩いただろうか、茂る林の枝葉の間に大門が見えてきた。祐天寺だ。

(現、東京都目黒区中目黒)

 黒い板塀に囲われた寺だ。庭を掃き清めていた小僧に、三縁山増上寺の前住職、大僧正祐天が退隠後に創建した寺と聞く。

手桶を手にお墓参りをする人を見かけたが、評判の名所とてただ境内を散策する人とて多い。

吾等一行は皆々が本堂と経堂に手を合わせ、一覧してそこを出た。

(夢遊西郊記には、「又行里許(いくことりばかり)林樹(りんじゅ)森然(しんぜん)(いち)一大門(だいもんをうる)(ゆう)祐天寺(てんじとごうす) 此芝三(これしばさん)縁山前(えんざんぜん)住持(じゅうじ) 祐天(ゆうてん)大僧正(だいそうじょう)退隠後草創焉(たいいんごそうそうとか)厳然一名區也(げんぜんいちめいうなり)各抵寺門一覧而(かくあたりじもんいちらんして)(いず)」とある。句点、ふりがなは筆者.

   しかし、祐天(・・)()退隠後(・・・)()創建(・・)した(・・)()では(・・)ない(・・)。増上寺第三十六世住持、祐天が己の廟所(びょうしょ)を目黒の地にしたいと願っていたことを知る弟子の(ゆう)(かい)が、廃寺になりかねない目黒の善久院(ぜんきゅういん)を百両で引き継ぎ、自ら住職となるとともに祐天の廟所と念仏堂を建立した。享保八年(一七二三年)一月、明顕山祐天寺の寺号が許可されている。)

 さして歩かずに、一本の巨木があった。何の木か分からない。あたかも寄りかかるようにその木の根元近くに茶店があった。どうやら、老婆が一人で切り盛りしているらしい。他に人気(ひとけ)が無い。

「一休みしましょうか?、如何しましょうか」

 珉治の問いかけに、皆に休もうと声をかけた曽生だ。

 この先は吾とて知らぬ土地だ。何処でどうなるか分からぬ。小休止に賛成した。お茶を求めた。 

 ところがだ。渋くて、苦くて、とてもとても飲めたものではない。

 「本当にお茶か?」

 曽生が、皆を代表するかのように老婆に向かって聞いた。

「一杯、四文(約百十円)頂きます」

 歩きながらも、まだぶつぶつ言う曽生だ。

「こんなところで、分のわからぬお茶を口にして腹痛だ、下痢だとなってはたまらぬ。ひどい商売だ」

 皆が一口でやめたのは正解だったろう。

 

[付記]:上記の祐天寺に掛る文面について、面識もなく、ただ手紙の往復で祐天寺、現・御住職、巌谷勝正様に御指導を頂きました。この場をお借りして、改めて心から御礼申し上げます。