エ 出立
五月朔日(陰暦。陽暦で六月二日)。朝早いが暁七つ、寅の刻(午前四時)ともなればもう周りは明るい。
「寝ておれ。構うなと申したに・・・、大丈夫か。今日の事は吾には遊びの一つよ」
「はい。早くに寝かせていただきましたれば、(身体は)大丈夫にございます。
道中が長いとお聞きしておりますれば、朝にもしっかりと腹を拵えた方がよろしゅうございます」
ワカメと豆腐の味噌汁に、香の物と梅干し、摺り下ろした長芋が吾のいつもの膳に用意してあった。
「また、弁当は要らぬと仰せでございましたが、道中、何が起こるか分かりません。
それゆえ、握り飯を三つ用意してございます。
少しばかりお荷物にもなりましょうが、
お腹が空いたときに何時でも何処でも、歩きながらにても口に出来ましょう」
包を手渡された。まだ手に暖かい。
「水(竹筒)は用意しましたが、急な時のお薬は・・・、汗を拭く手拭いは・・・」
「ハハハハハ。吾は今に翻訳、書き物を主にしておるが医者ぞ。心配するな。
具合が悪ければ母上に構わず横になれ。
勿論今日には帰ってくるが、何、茂(長男、茂槇、この時まだ五歳)はニ、三日放っておいても良いのだ。
其方の身の方が大事ぞ」
「はい。ありがとうございます」
吉の笑みが長芋よりも力を与える。
「お茶を一杯貰おう」
さして広くもない土地、家屋敷にあれば、外の人の声とて時に聞こえてくる。
「着いたぞ。ここが大槻玄沢殿の塾ぞ。住まいじゃ。芝蘭堂じゃ」
士業(伯元)の声が大きい。半ば家の中に居る吾に合図しているようにも聞こえる。また、芝蘭堂を態々に宣伝している。
吉の見送りを背中に受けて表に出た。
「お早う。皆、早いのう」
吾の声に、士業が笑みを見せた。
「お早うございます。道中が長ければ朝早く、このようにもなります。
幸いに今日は良い天気になりそうです。
楼に学ぶ北條英次郎殿と竹内玄寿殿にございます。後に、棣棠亭に参りましてから残る三人をご紹介します」
「うん。今日一日、宜しく頼む」
言いながら、士業に紹介された二人にも軽く挨拶をした。
「大槻先生に何時かお会い出来ると思ってはいましたが、今日にお会い出来て光栄です。興奮しております。
蘭学階梯を筆写させていただきました。有難うございます」
北條殿だ。それに続いて、竹内殿が言う。
「(天真)楼の図書に御座いましても筆写の順番がなかなかに回ってきません。
必ず筆写させていただきます」
士業の後ろに立っている青年がいる。見やると、ぺこりと頭を下げた。
士業の所に仕える書生なのだろう。初めて見る顔だ。陽助もまた居ても良かったのにと余計に思った。
子謙の顔が見えない。明卿にも吾にも必ず一緒に行くと言っていた。
「子謙の姿が無い。もう少し待とう」
明卿の言葉に誰もが従った。
しかし、暫く待とうにも子謙の姿はない。
「子謙殿のお住まいは?・・・」
曽生の問いに明卿が答えた。
「山王街じゃ」
「参りましょう。山王街は赤坂御門の手前になります。
行く途中にお会いするやもしれませぬ。お住まいはご存知でございましょうや?」
「勿論」
「なれば、途中に訪ねて見ることも出来ます」
それで明卿も吾も、合点した。
歩き出すと、一人の青年が寄って来た。
「山田宗次郎にございます。医学医術に本草を学んでおります。
今日も、また今後とも宜しくにお願い致します」
ごつい顔ながら、目が大きくて人懐こい。
「こちらこそ、宜しくな」