「ところで、耳に入って来たには先月、三月に長崎の吉雄(耕牛)殿等の御裁きがあったみたいじゃ。
前に樟脳の輸出に関わる汚職事件で吉雄殿(吉雄耕牛)が五年間の戸締め、楢林重兵衛と本木良永殿が三十日の押し込めになったと話したが、続きがあったみたいじゃ・・。
去年の暮れ、十二月。同じ樟脳の取り扱いでお上の半減令にもかかわらず、それ(半減)を上回る取り引き(輸出)をしている、令を守っていないと、誰と分からぬが密告がまたもあったらしい。
それでこの三月に吉雄殿が通詞目付の役職を解かれ、年番大通詞にあった楢林殿も、年番小通詞の西吉兵衛殿も役職を解かれたと聞いておる」
「えっ・・・」
「悪い情報ばかりではないぞ。
薬品会が去年(寛政二年)に途切れておったろ。
漢方であれ蘭方であれ、薬、本草は医術にあっては欠くことのできない物じゃ。
庶民のためにと薬品会の復活が今に話題とされておる」
吉雄先生や楢林殿に思いを馳せていると、次の話だ。
「其方も知っておろう、神田の躋寿館(神田佐久間町)、そこが幕府直轄の医学館になる。
これからはその医学館で毎年に物産会(薬品会)が開かれるようになる。
吾ら江戸市中の医者に金を出せ、金を出せとのお上の命令があったが、出来る(復活する)医学館が医者を養成する、庶民のために診療もすれば薬も出すとなれば納得も行く。小石川(養生所)と同じじゃ。嬉しい事ぞ」
(医学館は医学の基礎を学ぶ医生が患者を診察し、処方箋を教授が確認して調剤を命じる。幕府における医者の養成が目的で患者の負担は一切なく、困窮した入院患者には食事も提供した。寛政の改革の一つである)
先生のご政道に係る情報の入手はますます冴えている。淡々と語るが、耳にする吾にとっては驚ことばかりだ。
奢侈禁止、倹約令の余波か長崎の通詞の皆の今後が心配になるが、一方で田村藍水、平賀源内先生から続いていた物産会(薬品会)が幕府直轄で復活する。養生所が一つ増えることになる。これ程嬉しいことはない。
(躋寿館は幕府奥医師・多紀元孝(一六九五―一七六六)が開いた医学塾。天明六年(一七八六年の江戸火災で類焼(全焼)していた。なお、平賀源内亡き後も続いていた物産会が寛政二年だけは開かれていない)。
先生に近況を報告した故か、幾分気が楽になった。最早、何処に行こうと達者であれ、吾が道はこれだと胸を張れるほどになって帰れ、頭に浮かぶ陽助に語り掛けた。
畹港(三十間堀)の目の前に見える小舟は、春の陽を浴びて穏やかに流れている。しかし、時折吹く風に大きく煽られてもいる。
相談してくれれば出奔せずとも上方の医家も紹介出来たのに・・というお言葉は有り難い。
いずれ先生に本当の出奔の理由を知られたとしても、その知られる前に玄良(陽助)自身が、何ぞ戯作でも物語でも世に問えるものを書けないものかと思案が行く。そうなれば、義理を欠いた今回の行動も少しばかりは許される部分も出てこよう・・・。
家に戻れば、陽助はどうなったとまた母上が聞くだろう。今は、心配するあまり食の細くなった母上の身の方が心配だ。
四 夢遊西郊記
ア 駒場御薬園見学の計画
朝餉をいただいたものの、明けまで仕事をしていたせいか妙に眠い。
折もおり瓦版屋の声がする。釣られて買い求めに表に出た。
家の者(使用人)に頼むよりも瓦版屋の姿形を見れば事の軽重が分かる。自分で買いに行くのがやめられぬ。
まだ肌寒さを感じる朝だが青空を見るのも眠気飛ばし、気分を良くする特効薬だ。
瓦版は洒落本から黄表紙、狂歌本に絵本、錦絵までも出版する蔦屋(蔦屋茂三郎)が身代(罰金)、重過料の上に耕書堂の土地半分を召し上げられることになった。今にお白州でその身体に竹刀が喰い込む。叩かれていると伝える。
また、山東京伝が手鎖五十日の処罰を受けた、自宅蟄居で済んだものの仕事が出来ないと詳しい。
寛政の改革とやら、何処まで取り締まりが及ぶのか。他人ごとと傍観も出来ぬ吾が身ゆえ記事一面に目が覚めた。