「近くさ寄んべ(近う寄れ)。冷めぬうちに食べよう。飲もう。身体が(あった)まる」

 田舎言葉を口にした。文机(つくえ)に寄ったものの手を出さない玄良に盃を手渡した。

 人肌の温もりと言うべきか、口にした酒が美味い。一口飲んで友が暮れに田舎から送ってきた酒だと分かる。塩釜神社の御神酒(おみき)にもなる(うら)(かすみ)だ。

「吾は十七、八(歳)にして江戸に憧れ、蘭方医学を勉強せねば、和蘭医学書の翻訳に務めねばと思った。

 先代(二代目)建部清庵先生が、一関にあって吾らに披露した絵図、解体約図に興奮した。解体新書が世に出る一年半も前じゃ。

 先生(杉田玄白)が清庵先生に寄こした骨筋、臓腑、脈絡の絵図にただただ驚いた。あの時のこと、今でも覚えている・・・。

清庵先生は、西洋の医学が漢方よりも優れていると凡そその三十年も前に知っておった。先生は江戸にいた、江戸で医学を学んでいたのじゃ。

 理由(わけ)あって一関に下ったものの、蘭方医学を学ばねばと若い時からずーっとの思いを抱いていた。

 

それが、江戸に在る玄白先生を知り、その後のお二人の手紙のやり取りに繋がった。

 清庵先生は、手にした解体約図も解体新書も惜しげもなく吾らに披露した。

今にして思えば、時の流れで清庵先生が江戸におった頃よりもお上の取り締まりも緩やかになり、異国の書を見ることもややに許されていたと思う。医学医術を取り巻く環境が大きく変わろうとしていた時代にあったと言える。

 清庵先生は、蘭方医学を知ること、阿蘭陀(おらんだ)の書の翻訳が大事、(いくさ)のない世に阿蘭陀の医書を翻訳する者こそ今の世の豪傑だと語った。

 吾はその豪傑が耳から離れなんだ。されど、翻訳出来る人、蘭語の師匠と呼べる人は誰か。田舎にあってはそのようなことを知る術はなかった。

 江戸に来て、それを教えてくれたのが今は亡き中川(なかがわ)淳庵(じゅんあん)先生であり、法眼、桂川(かつらがわ)()(しゅう)先生であり、伊予松山藩の侍医、有坂(ありさか)()(けい)先生だ。

 有坂先生は知っていよう。(天真)楼の教壇に今も時折立っていよう。お亡くなりになった先生の奥方様、()()様の弟だ。

 その先生方に朽木(くつき)(こう)も加わって、皆々が吾の和蘭語勉強の道を開いて下さった。

 後は其方も知る前野良沢先生に工藤様じゃ。仙台藩移籍から長崎遊学までの労、工藤様に頼る所が多かった。蘭学の教え、翻訳は良沢先生じゃ。

 今の吾があるは玄白先生ほか皆様のお力添えがあってのこと。己の思いや努力、精進があっても、何事も一人では出来ぬということぞ。

自分のやりたいことは医学医術以外のこと、進むべき道は医学にあらずと言うが、何ぞ己が取り組むべき道を見つけたと?、

 誰ぞの支援や協力、教えがあると?」

「はい。吾の道は浄瑠璃、戯作。語りものの原作が書ければと思っております。

師匠とて(あが)める、導いてくれる方は今に特にはございません。

 なれど、近松門左衛門の浄瑠璃に大いに関心がござれば、誰ぞと言えばこの世におらずとも近松門左と言うことになりましょうか。

 また、版元から書くように依頼されるほどの森嶋先生(森嶋中良)の生き方にも憧れております」

「吾も浄瑠璃も歌舞伎も好きじゃ。なれど、其方の話は単に憧れにすぎぬ。

 何事も好きこそものの上手と言うで、そのための取り組みをしていると言うならそれもまた良いが、其方が何ぞ書いたというは目にしておらん。聞いてもおらん。

 憧れと、生きていくための生業(なりわい)とは別じゃ。

 戯作、浄瑠璃、歌舞伎などは己の人生を楽しむための物、見る物、飾る物として捉えられぬか。父上や吾と同じように医業医術、本草の学びに力を入れて、少なくとも生業(なりわい)の立つように努力してみるが良い。

 江戸に来て三年。先生や士業殿始め多くの方々が其方のために指導してくれたろう。これからに其方の医業医術のほどを知って、評判を聞いて、何処ぞの藩からお抱えの話とてありうるのじゃ。

 其方が吾のように翻訳出来ねばとは思っておらん。

 其方の先を案じればこそ、父上の名跡を継がせてほしい、藩にてお抱え下さるようにと、かつて関藩(一関藩)の小姓頭(こしょうかしら)山中宅(やまなかたく)()衛門(えもん)殿にお願いもした。書を(したた)めもした。

 吾に出来ることは何でもする。故にここは辛抱。真摯に医業医術、本草学の習得に心底本腰を入れては如何(どう)だ。

近頃、度々に飲んで帰ると、帰宅の遅い其方を母上が心配しておる」

 二人の間に、少しの沈黙が流れた。