六 弟、陽助の思い
月も末になって、琉球人正使が江戸に着いたと巷の噂を耳にした。
やがてお城に登城するはずとて三田の薩摩藩上屋敷(現、東京都港区芝5丁目、NEC本社)の辺りを用もなくウロウロする人までが出ていると聞く。
瓦版屋とて書くに良い材料だろう。滅多に見ることも無ければ、吾とてもその登城の列を一目見たくもある。
十二月二日、子の刻四つ半(午後十一時頃)。
夜も遅く、ただいま帰りましたの声も大きくして玄良(弟、陽助)が帰ってきた。子も母上もとうに床に就いている。
書斎から顔を出して静かにと窘めた。酒臭い。
「見てきました。兄上も見たと?」
反省の色も無く質問だ。
「何を?」
「琉球がご一行にございます。
それは見事な、見たことも無い行列にございました。
旗を持った従者に先導されて銅鑼に太鼓、喇叭を奏でる者が続き、その後ろに飾られた馬に跨った者。
その後に御神輿にも似た屋根付きの輿に乗られていた方が王様の代理、若殿と言うのか若様と言うのかだったのでしょう。
その後ろにまた馬に乗った者等が続く行列でした。
琉球では若殿でも若様でも無く、王子様と言うとか。
(天真)楼に一緒に学ぶ事情通仲間が、そう言っておりました」
「琉球正使の登城が今日だったと?」
「はい。事情通の兄上でもご存じなかったですか?」
少しばかり、むっとした。期待していて見逃したせいもある。
「楼に来た患者の一人が、来る途中、芝の周りは朝から御徒組が多くに出ていた。これは何かあるぞと、患者にも、吾等仲間(医者、手伝い人)にも報告しました。
患者同士、吾等同僚、医者仲間でもすぐに噂になりましたよ。
その後に来た患者が、琉球正使の登城姿を見たいゆえ早くに診てくれと言ったので、それで事の次第が分かったのです。
たまたまに診察の場にお出になっていた子深先生(石川玄常)が、しばし休んで、見に行っても良いと言ってくれました。
吾々も患者も一斉に走り出しましたね」
そんな馬鹿な。患者は病に困っているから(診療に)来たのだろう。そんな患者なら来なくて良い。
医者も医者だ。診療の場をほったらかしにして良いと思うのか。
話を聞きながら腹が立ってきた。
「事情通が言うには、御一行は芝の薩摩藩上屋敷から増上寺表門前。そこを通って芝口橋へ出るとてその通り道に寄りました。
とうに押すな押すなの見る人だかりでしたよ。
俺が先だ。俺の前に立つなとあちこちでケンカが始まる。ケガ人が出るの始末でいささか呆れもする大騒ぎでした。
あんなに見物人が出たのを初めて見ました。
昼を過ぎて(天真)楼に戻りましたけど、その後の診察の時にも、患者も同僚も何かといえば見て来たばかりの御一行様の話で話題が尽きませんでした。
行列は三十人ほどでした。」
「それで、なんで酔っぱらっているのだ」
玄良の言う診療の場を想像して腹も立つ。
「すみません。
(仕事)時間が終わると、今日には講義も無ければとそのまま同僚と飲みに行きました。
飲みながらに、昼に見た琉球正使御一行の行列で話が尽きませんでした。
ええ、薩摩藩か、海を渡ってその先の琉球国に行ってみたいと誰もが口にしました。
何しろあの独特な姿形に目を奪われました。輿に載られた御仁は赤地に金や五色で飾られた帽子を被り、金銀の簪でした。
他に紫地を五色で飾った帽子に金銀の簪、紫、黄色、赤の目にも鮮やかな帽子の従者でした。
また、見た目はゆったりとした和服にも似たものを身にまとい、腹の辺りを幅のある帯で締めています。白い足袋に厚みのある草履姿でした。
十日ほど前(十一月二十一日に江戸に参着)に薩摩屋敷に入った一行をも見たと言う同僚は、その時には袴にも似たような着物を着て、歩きやすいように足元の裾を絞っていたと言ってました」
玄良の語る様子に、カピタンの江戸参府を初めて見に行った時のことを思いだした。市中に見た行列に驚きもしたけど、その後に先生に連れられ訪問した長崎屋で目にした異人達の姿の方が強く印象に残っている。
襖や障子のある和室の中で、自分もまた頭から足元まで異人を眺め回した。それが、あの時に思いもしなかった翻訳の業に専念する今の自分に続いている。
玄良に、今日この頃の状況を聞く気にもなった。