ウ 柄井八右衛門没す
今日の瓦版の記事には驚かされた。俳諧と一体に俗談を旨として狂句を作ることを得意とした川柳(柄井八右衛門)が没したとある(十月三十日)。
政を揶揄してはならぬと、とうとう書籍にかかる御上の検閲もまた厳しくなった。
されど、狂歌も川柳も今や止められるものではない。少しばかり読み書き出来るとあれば誰もがまねをし易い、世を皮肉ってもみたくなる、面白いのだ。
吾も嘘風(ほら吹き)などと駄洒落に付けた名で五、六年にもなるか。
川柳殿や四方赤良(蜀山人、太田南畝)殿にあやかって駄作を重ねていただけに、思いもしていなかった柄井の訃報は残念だ。
エ 吉雄耕牛等の処分
悲しみが癒えずとも時は確実に巡る。寒さに身を縮める霜月(十一月)。
入ってくる情報の早い先生だ。久しぶりに先生宅にお寄りしてまたも耳を疑った。
(長崎も)出島で樟脳の輸出に関わる汚職事件が摘発されたと言う。
吉雄殿(吉雄耕牛)が「五年間の戸締め」(玄関の戸を閉めて釘で打ち付ける)となり蟄居を命じられた、楢林重兵衛殿と本木良永殿が三十日の押し込め(自宅謹慎)の処分を受けたと語る。
三月にも兼葭堂(木村兼葭堂、大阪)が少しばかりの理由にかこつけて酒造りの廃業に追い込まれたのに・・・。
越中侯の奢侈禁止、倹約令の犠牲が長崎にまでも及んだかと思わないでもない。
緊縮、緊縮で世の中が救われるのか・・・。
オ 倅、陽之助の七五三
行き交う人の中にちらほらと着飾った親子を見かけるようになった。
子はどの顔も笑顔か澄まし顔だ。親の方が緊張しても見える。
何処の神社に行くのだろうか。久しぶりに顔を出した(天真)楼からの帰り道、吉と話さねばなと足早になった。
「道々、袴着のお参りに行く親子を何組か目にした。
陽之助のお参りもせずばなるまい」
座敷に姿を見せた吉に、早々に言った。
「はい。貴方様の都合が分かりませなんだ故、お義母様とお話してご一緒に越後屋を訪ねてございます。
先に陽様のお袴一式をご用意させていただきました。
後は何時にも天気の良い日に、また、貴方様の都合が良い日に(お参り)とお待ちしていたところに御座います」
応える吉はお盆に吾の湯飲みを乗せたままだ。
年老いた母上も連れて女坂をゆっくりと上った。
母上の身の回りの世話は吉とお京に任せた。
親ばかチャリンと言われようと吾は陽之助の手を取った。陽(陽之助)はとみれば、慣れぬ袴姿に戸惑いながらも顔は終始笑顔にある。
愛宕社は上る坂の前から人の波にあった。やっとに上った社殿のある平坦地もまた人、人だ。
広くもない土地に小さな池が配してある。押されてその池に落ちはしないかと心配にもなった。
振る大きな鈴の音が心地よく聞こえる。無病息災、成長、食べる物の暮らしに困らぬようにと、陽の先行きを願掛けた。
お守り札を買い求めて、それから後に興味本位に男坂を上から見下ろした。
讃岐(現、香川県)の丸亀藩、曲垣平九郎が馬で駆け上がったという急も、急な坂だ。それこそ、後ろから押すな押すなだ。
母上も吉も、怖い、怖い、危ない、危ない、を連発する。
尻込みをする陽と一緒に吾も下を覗いた。
出世階段とも呼ばれるその男坂を、上れ上れと無理強い叱咤して、途中に泣きべそをかいている男の子も居る。そこまでしなくてもと思うが他人事だ。
帰りもまた女坂だ。
「下に着いたら、何処ぞで皆で蕎麦でも喰おう。
蕎麦は長寿とも言う縁起物だでの」
「嬉す(し)い。こんなお参り、俺はしてもらえなかった」
元禄の世(一六八八年~一七〇四年の間)に売り出されたと聞く千歳飴を手にしたお京が一番はしゃいで言う。
吾とて、してもらった記憶が無い。
