イ 前野良沢への報告

 築地にも足を延ばした。中津藩の門構えを見るのも久しぶりだ。

六十八(歳)になるとても良沢先生はお元気にしていた。

 吾は何よりもご報告をと心に決めていた。お茶を一服いただいて、気を静めて口にした。

「先日に蘭学階梯の先の版元((ぐん)玉堂(ぎょくどう)松本(まつもと)(ぜん)兵衛(べえ))からお話がございました。

 本屋仲間(組合)で話合い、大坂は心斎橋に柏原屋の屋号で店を構える渋川(しぶかわ)(せい)()衛門(えもん)殿、江戸は日本橋本石町に平林堂の店を置く西村(にしむら)(げん)(ろく)殿、通油(とおりあぶら)(ちょう)で狂歌、洒落本(しゃれぼん)から軍記物(ぐんきもの)浄瑠璃(じょうるり)錦絵(にしきえ)等まで手広く出版販売する蔦屋(つたや)重三郎(じゆうざぶろう)殿の(こう)書堂(しょどう)の三店舗(版元)から蘭学階梯の再版を出したいとのことでございます」

「ハハハハハ、それは良いことではないか。

 蘭学階梯が評判になっていると聞くだけでなく、世に和蘭(おらんだ)()の勉強が必要だ、和蘭等異国に学ぶ必要があると、世間の人々が認めたと言うことになる。

 吾の和蘭(おらんだ)(やく)(せん)に声をかける版元が無くとも良い。先にも申したではないか。異国に学ぶは国家の裨益(助け)になる。それが蘭学階梯によって知らされた。

 吾が長年の望みが其方のその本で叶ったともいえるからの。

つた)(じゅう)か。大門(吉原の大門)(そば)の貸本屋から商売を建てて、今に江戸市民にも人気の版元じゃな。

 吉原の細見(さいけん)(吉原遊郭の案内書)から狂歌、黄表紙(知的でナンセンスな笑いをとる大人向けの草双紙)、赤本(おとぎ話、絵本など子供向の本)に錦絵、艶本(つやほん)と来て、其方(そなた)の書まで手を広げてきたとは驚きもする。

 だが、本屋(組合)の方からそう言ってくる、(ぜに)の悩みも無くに出版が出来ると言うことを喜ばねばの!」

 お聞きして来たばかりの工藤様のお話と、江戸にあった頃の林子平殿のお顔が余計に思い出された。

「吾は今、幕府の天文方にある(属する)山路才助殿の依頼を受けてな、異国の暦に付いて調べておる。

関係する書の翻訳に取り組んでおる所じゃが、これまた面白い。

 また、まだまだ蝦夷地に興味があっての。今、「東察(かむさ)加志(つか)」(カムチャッカ)について調べおる。

シベリーノ(シベリア)の東辺(ひがしあた)りにあるイルクツキ(イルクーツク)に属すると言う国だ。吾らが(おく)蝦夷(えぞ)と呼ぶ処よ。

 平助ではないが、その開拓、交易の利に今も思いを馳せておる」

 玄関口まで先生にも奥方(珉子(たまこ))様にもお見送りを頂いた。

(とおる)殿のお姿が見えなかったが何処ぞに出かけていたのだろう。