吾よりも少し年齢が先を行っているように覚えた。
その萩野殿はお互いの挨拶の後、長く江戸に在って日本橋、京橋、神田周辺ばかりか江戸市中と近辺を巡り歩くのが最大の楽しみと語った。
春は湯島に蒲田の梅、上野や飛鳥山、隅田の桜、亀戸の藤、夏は両国の花火に隅田川の舟遊び、秋は王子、滝野川、品川の紅葉狩り、道灌山のお月見に巣鴨の菊、冬は向島長命寺や湯島の台の雪景色だと語る。
士業殿も吾も萩野殿のその名所話に飽きなかった。
面白く思うこともお聴きした。あちこちを歩くが、その土地の神社仏閣を訪ねては必ずに己がこの堂宇に来たと「天愚孔平」と大書した札を貼って帰るのだと言う。
(萩野信敏のこの行為が、神社仏閣等の天井など高いところに貼り付ける千社札の始まりとされている。
参考図ー島根県・松江歴史館・平成27年度特別展・図録)
萩野殿に質問した。
「何故に天愚孔平なのか?」
「ハハハ、他人が吾を評して高慢ちき、天狗になっていると言うでな。
ならばと、吾自ら天に愚かとして天愚とした。洒落よ。
また、書籍を手にして儒学の時を超える教えに感動を覚えた。吾は孔子の子孫とも勝手に言うでな、名を孔平にした。
変わり者に(蘭学階梯の)序文を書かせて良かったのかの。
藩侯(松江藩、藩主・松平治郷)の命令とあれば吾も仕方なかったがの・・ハハハ」
その日の後に、間もなくに朽木侯からお呼びがかかったのも覚えている。呼び出された先は日本橋も黒塀の続く人形町の料亭だった。
その席で、侯自らに松江侯(松平治郷)との間柄をお話した。驚くばかりだった。縁とは不思議な物とも感じた。
吾が(蘭学階梯の)序文を寄せてくれるようにと依頼したのは、先生(玄白)や工藤様等の御意見もあって藩侯(伊達重村)と朽木殿だ。
それが、侯から松江侯に渡った経緯については松崎殿(松崎仲太夫)にお聞きした。また、その結果に萩野殿に行きついたことも大凡に分かった。
驚いたのは侯(仙台藩)と福知山候と松江侯、御三方の間柄だ。
松江侯、松平治郷殿が、吾らが藩侯、伊達重村様の妹御(伊達宗村の九女、静姫方子)を正室としていることは先に松崎様にお聞きしていたが、最もお世話になっている福知山候、朽木殿は治郷侯の妹御(松平宗衍の息女、幾(万)姫)を正室としていた。
御三方は姻戚関係にあったのだ。
吾の侯が中で一番年上らしいが、侯も朽木侯も不昧の号を持つ治郷侯に茶の湯を習っている間柄だと知った。
また、松崎様から関太郎吉(後の雷電為右衛門)を委ねたとお聞きして治郷侯が好角家と知ってはいたけど、今に聞く前頭の稲妻咲右衛門(身長一八五センチ、体重百十三キロ)が、亡くなった釈迦ケ嶽雲右衛門の実弟で大相撲史上初の兄弟幕内力士だったとお聞きして驚いた。
(釈迦ケ嶽雲右衛門は、身長二百二十六センチ、体重百七十二キロ。安永四年(一七七五年)三月、二十七歳で急逝。最高位大関。出雲国能美郡(現、島根県安来市大塚町)出身)
あの席で、工藤様に連れられて鶴岡八幡(宮)に初めて大相撲を見たときの帰りのことも思い出された。寄った小料理屋で工藤様にからお聞きしたことだった。
「其方が江戸に来る三、四年前のことじゃ。松江藩お抱えに東大関、釈迦ケ嶽という力士がおっての。背丈が七尺五寸(約二百二十六センチ)もある大男だ。
このような小料理屋に飲み食いに上がり、勘定支払いの段になって女将が機転を利かした。
屈むのも難儀だろうと二階に上がり、その障子窓を開けてお代を受け取ったという。お女将の丈が五尺(約百五十センチ)とて無かったとか。
ハハハハ、そこに間近に居て、見もしたかった図じゃよ」
朽木侯のお声がかりで候にお会いするときは、今も日本橋の何処ぞの料亭だ。その場で多くの方々のご紹介もいただいている。
萩野殿と三人でお集まりした時は、今の世の世情を語った後に、決まって蘭学の教えるところ、異国に学ぶべきこと、大相撲の話になる。
「泰西輿地図説」を前にして、去年の暮のことも思い出すとは思いもしなかった。

