三 宿題―解体新書の改訂

             ア 杉田玄白の(おおせ)

 報告を兼ねて翌日に浜町の先生の所に寄った。先生は吾の言葉を受けて、上杉侯は今の世に三百諸侯の中でも随一の藩主、賢君だと白河侯(松平定信、越中守)が評していると語った。

 やはり先生は情報が早い。誰ぞ幕府中枢の人物に繋がっているように思える。

その話の後に、またまた大事を耳にした。いや、吾が耳を疑った。

「其方の塾も仕事も順調のようで何よりじゃ。

 そこでと言っては何だが、ヘーステルの(外治の本)翻訳も大分に出来たがゆえに頼みがあっての。

 其方もこの江戸に来て分かった、原書を見て分かったと思うが、ターヘル・アナトミアはあの通りの大書じゃ。吾らが解体新書に現したるはその半分にもならん。

 あの原書の教える医学医術がいかに大事か、西洋医学がいかに漢方の教えより先に進んでいるか、この江戸に来て、長崎に行って来て、其方も十分に知り得たろう。

 そこでだ、其方にあのターヘル・アナトミアを改めて翻訳してもらいたいのじゃ。それが必ず国家の裨益(ひえき)(助け)になる。

 これからの世のため、人のためになるものぞ。吾は、それが出来てこそ本当の解体新書になると思っておる。

 翻訳を任せるに其方しかおらんのだ。塾生の皆々を率いて、また必要とあれば伯元(娘婿、士業)も吾が(天真)楼の塾生を使っても良い。参加させても良いのだ、

如何(どう)じゃ・・・」

「それはまた・・・」

 背中と言わず身体中が熱くなった。汗が出てきた。厳しい残暑ばかりではない。思わず傍に置いていた手拭いを手にして額の汗を(ぬぐ)った。

 先生の側に在る士業殿が微笑んで顎を引くのが分かった。そして言った。

「必要とあれば何でもお申し付け下され。

重々(じゅうじゅう)に容易なことでござらぬ事なれば、喜んでお手伝いに回らせていただきます」

 冷たいものをお持ちしましたとお扇さんだ。少し顔がふっくらしたようにも見える。

都合良くもあった。置かれたコブ(コップ)に先生や士業殿よりも先に手を出した。

 冷えた水(井戸水)は喉に心地よかった。

 

 道々。半分に浮いた気持ちもあれば大変なことになったと、思いを引きずりながら玄関を潜った。

どんな顔をしていたのだろう。()のどうかされましたかとの声に吾に返った。

 喉の渇きを覚えた。水でもお茶でも良い、頼むと言った。

 文机つくえ)を前に、側の本棚にあるターヘル・アナトミアの表紙を見ながらに思った。何年かかろうが何人の人に助けられようが改訂解体新書を世に出さねば。

 翻訳専一。これが吾の仕事だ。翻訳こそが国の裨益になる。心が熱くなるのを覚えた。

日記を広げて溜息を一つ付いた。引き受けた大役に、ふつふつと成し遂げねばと気が(みなぎ)ってくる。

「自分はもとより学識無し。いずくんぞ敢えてその()(けん)に勝たんや、しかると雖も、師の(おおせ)、重さは附属の(じょく)(よろ)しく以って固辞すべからず」と記した。(官途要録)

(自分はもとより未熟者にある。解体新書の改訂に敢えて挑んだとて如何にしてその責任を果たせるのだろう。されど師の(おおせ)(命令)だ。その重さと言えば例えようもない。勿体なきお言葉だ。よって固辞すべきにあらず。筆者注訳)

             イ 工藤平助の励まし

 秋風の吹く頃にはなったけど、工藤様宅を訪ねることにした。新居の生活はその後どんなものか息災かと工藤様の身も気になるが、吾が塾の近況も、また、先生(おおせ)の宿題の事もご報告して置く方が良いと思案した。

 翻訳する中で、吾の足りぬ、知らぬ医術の事で教えを乞うこともあるだろう。何処(どこ)如何(どう)にお世話になるかも知れない。

引っ越しの手伝いに来た時以来だから、凡そに半年も経つかと思いながら小さな門を通った。