お三方にまずは入学盟規を記した載書(さいしょ)(誓約書)に目を通していただき、墨痕も新しく門人帳に歳月、日を記し、署名、花押のうえに血判を頂いた。

 入学盟規には、我が国は学ばんとする者(生徒)に師がその技術技芸を伝授するをもって成り立ってきた、そして、その際、必ずに一つの芯(軸)となる約束ごと(誓詞)作り載書としてきたと書いた。

 誓いの詞は鬼神の(いまし)めの句にして漏洩(ろうせつ)(漏らすこと)はならぬ。歳月と日を記し、署名、花押のうえに血判を頂くは神との誓いと同じ、と記した。

 吾もまた最初に師の教えを受けた。しかる後に他の諸子に学んだとても今に医者として成り立っているは師の教えによる。吾の所に学ばんとて来る篤厚の徒(誠意ある、大志ある生徒)は固く載書に(のっと)り、師の教えを(たが)えることなかれ、とした。

(官途要録に記録されている芝蘭堂入門者の数は、寛政元年(一七八九年)陽歴九月十六日から文政九年(一八二六年)十一月二十二日までの間に九十四人となっている。

 (参考図ー早稲田大学図書館所蔵の「載書」、及び「門人姓名簿」。いずれも国の重要文化財)

 

 堀内殿は当初、(天真)楼で医術も翻訳の仕方も学ぶとお聞きしていたが、吾の芝蘭堂で蘭語の方の勉強の面倒を見てくれと先生の(おおせ)だった。

経緯(いきさつ)はともかく、米沢の二人は(われ)が良沢先生の所で蘭書の翻訳を学んだ時と同じ方法をとることにした。堀内殿と宮崎殿は(天真)楼の寄宿舎に寝泊まりして週に四日ばかり五つ半(午前九時)から昼九つ(正午)まで芝蘭堂に通い、その後の時刻に楼で医術を学ぶ。

「この先も西洋の医学医術を学びたいとする者が江戸に来たれば、藩邸から通える者はそれで良しとして、吾の所と玄沢殿の所とを上手く使えば良い」

 そう語る先生のご配慮に感謝するだけだ。

 佐野殿は住まいのある笠間藩の上屋敷(大名小路の笠間藩牧野家屋敷、現千代田区)から天真楼にも芝蘭堂にも通うことになった。

 佐野、堀内、宮崎の御三方は吾が塾に入れることを喜んで熱く語り、有馬(有馬(ふみ)(なか)))は仲間が増えた、増えたと顔をほころばし(・・・・・)て両手を叩きニコニコしている。

 共に喜んでくれる顔を見ながら、今日は忘れられない記念日になったなと思う。有馬は今や芝蘭堂の大番頭だ。

 有馬とは去年の暮れ、阿蘭陀に係る世間の誤解や誤りを解くためにと、おらんだ(・・・・)という国の名から始まり、火喰鳥(駝鳥)や薬にもなる草木、硝子、器などなどオランダ諸々の言葉、意味する所等について一緒に整理した(磐水夜話)。

(磐水夜話は後に寛政十一年、大槻(おおつき)玄沢(げんたく)口授、有馬元晁(ありまげんちょう)(ふみ)(なか))筆記、越村図(こしむらず)(なん)校正として「蘭説辨惑(らんせつべんわく)」として発刊される)

 それにしても、まだ見たこともお会いしたことも無い上杉侯には感心する。藩財政が窮乏の折にもかかわらず藩士の洋学、医学の勉強を奨励するために勤学制度(藩費助成制度)を創設したのだと、堀内も宮崎も胸を張って侯を自慢した。

(当時、出羽国米沢藩には三人の藩主経験者がいた。ここでの候は第九代藩主。上杉(うえすぎ)(はる)(のり)である。隠居した後に号を「鷹山(ようざん)」とした)