晦日。いよいよに宗吉が江戸を離れる。彼の筆写した単語帳を見せてもらった。意味が分からずも、凡そ六万語を収録したと語る。
時代が違うとはいえ、また吾の単語帳を貸したと言ってもあの良沢先生(前野良沢)が長崎から帰って数年かけて収録した単語帳に匹敵するものだ。
収録した語を、医学、天文、地理、科学等に分類してある。本人は、四万語は暗記したと言う。これから大坂に帰って勉強を続けますと語った。
何時の世も、また短い間とても一つ屋根の下にあったれば別れの時は感傷的にもなる。妻もお富もお京も、そしてまた普段気丈なお通さんまでもが宗吉の旅姿を見送るときに涙を見せた。
「道中、気を付けてな。折角の単語帳、無くすな。泥棒に気を付けよ。
小石殿、間殿に宜しくな。其方の大坂での活躍を期待しておる。
何か聞きたいこと知りたいことがあれば遠慮は要らぬ。状でも寄こせ。
吾が大坂に行くこともあれば、その時には宜しくな」
幼心にも永の別れと分かったのだろう、陽之助がお元気でと言葉を添えて手を振った。
夕刻には、いよ様(杉田玄白の後妻)に子が生まれたと先生からの知らせが入った。
(赤子の名は藤)
八月。才助は週に五日、決まって昼四つ(午前十時)に来るようにやっと定まった。
往復二、三里の道を如何にしようか、朝に何時に起きて何時に出立して、帰りに何時にここを出るかと自分でも決めかねていたらしい。時に辻駕篭の世話になるときもあるらしいが、贅沢だと吾から口をはさむ必要もあるまい。
講義を昼までとし、その後は吾の書棚から己の読みたいものを手にしているときもあれば、早々に帰る日もある。
宗吉と比較しようとは思わないが、独学に学んで来たとて蘭語の言葉の路も知り、文の路も知り、また多くの単語を既に自分の物としていた。関心のある地理に限らず、その他の分野の蘭語もかなりに習得していた。
そう遠くない日に吾の翻訳の一端を手伝わせよう、その方が蘭語の習得により一層役立つだろうと思える。
ただ、吾が家の女子どもの評判は良くない。お茶を持て、腹が減った、何か口に出来るものはないかと横柄な口を訊く。
自分の家でもないのにとお富とお京だ。
瓦版が嬉しいことを伝えている。谷風が小野川とともに横綱になる、谷風四十一歳。凡そこの二十年で十八回の優勝とある(年二場所のみの開催)。やっぱり、わしが国さで見せたいものは谷風だ。
木の札(観覧券)の買い求めにたまたま一緒になった事情通は、雷電は大阪相撲で小結に付け出されたと語る。
瓦版はもう一つの情報を伝えていた。カピタンの江戸参府が来年以降は四年に一回と改められた。何やら長崎で事件が起きたと伝える。気にもなることだが、それ以上は書いていない。
先生(玄白)にお聞きすれば改められた事情も分かるのだろうが、それ以上にお世話になった吉雄(吉雄耕牛)殿、本木良永殿等に何事もなければよいがと思案される。
(この時、長崎では堀門十郎がオランダ商館から賄賂を受け取っているとの密告により大通詞の職を解任されている)
二 芝蘭堂に初の入門者
九月。笠間藩の佐野立見殿、米沢藩の堀内林哲(忠明)殿、宮崎元長殿の三人が芝蘭堂に入学してきた(十六日)。