月日の経つのは早い。あっという間の三カ月だった。川端に蛍の姿を多く見るようになった。
昨日は七夕の節句だった。陽之助は大してはしゃぐことも無く女子供の竹飾りを見ていた。母親が居たら、母上が生きておったら、もっと違った過ごし方だったろうにと思いが行く。
「今日もいい天気だぞ、外で遊んで来ていいぞ」
「わだす(私)が付いて行きます。心配ねゃ(ない)」
お京の田舎なまりを聞きながら、江戸に来てもう何年になる?、と苦笑いだ。
話があってから遅れに遅れていた山村才助殿が今日に芝蘭堂に顔を出す。深川から通うとてそう距離があるわけではない。一里か二里か、約束の時間は昼四つ(午前十時)だ。
江戸滞在が残り一カ月無いとても、宗吉を紹介せねばならぬ。
「いやー、ここまで結構な距離です。深川から永代橋、鍜治橋を渡って八丁堀、入船、築地を通って来ましたが、こんなに時刻がかかるとは思いませんでした。
いい汗にはなりましたが、初日から遅れて申し訳ございません。
次からは気を付けます。時には今後、(辻)駕篭に世話になることもあろうかと思います」
いきなりの言い訳を宗吉と一緒に玄関口で耳にした。それからに、常陸国土浦藩、山村才助だと名乗る。
「先ずは、上がられよ。大槻玄沢じゃ。こちらは大坂から今に江戸に来て、この家に寄宿している橋本宗吉殿じゃ」
宗吉を見た才助は、明らかに一瞥しただけの態度だ。
座敷に上がって聞くほどに、才助の関心事は今に世界の地理、異国の歴史だった。
医学の方はと問えば全くの無垢で、天文や地理の蘭学書を勉強し翻訳できるようになりたい、そのために入塾を希望した、蘭学階梯を手元に置いていると語る。
また、今、有している書籍の主なものとして、「万国航海図説(世界地図。和蘭人、ピイテル・ゴオス撰)」に、「地球全図(和蘭国アムステルダム刊)」など西洋の地理専門書を挙げ、語る。また一方、「明史」、「大清三朝実録」、「乾隆御製文集」、「西域見聞録」など吾も知らない、見たことも無い中国の書籍の名を挙げた。
手元に有る本朝の書籍は良沢先生の「和蘭訳筌」、吾の「六物新志」、「一角纂考」、森島中良の「紅毛雑話」などだと語り、「蝦夷志」、「慶長年録」、「今昔物語」など聞いたことがあっても、その内容を知らない書の名もまた口にした。
才助は、父母や伯父等の教えの影響もあって小さいころから漢学、和歌等に親しんできた、興味を引く書は筆写をしてきたと胸を張る。
そういえば、入塾の仲立ちをした先生(杉田玄白)は才助の身の回りのことを一言も話さなかった。吾は一関に在った時のあの役儀謹慎の事の一節を思い出した。身分の先入観等を持って人を計るべからず、先生の思いもその辺りにあったのだろうか。
宗吉はこの若者の自慢話とも聞こえる口ぶりを黙って横で聞いているだけだった。
月も半、先生や士業殿(伯元)の意見を聞きながら、また。今や吾が大番頭とも言える有馬(有馬文仲)と話し合いながら芝蘭堂入学盟規(載書、誓いの言葉)の草稿も、また門人姓名簿も準備出来た。
しかし、双方が揃ったとて宗吉にも才助にも遡って確約書も血判も必要とされるか。入塾の順を橋本宗吉を第一とするか、山村才助を二番とするかと少しばかり思案した。
結論は、入学盟規も門人姓名簿も準備できたのは二人が吾の所に来るようになって後のこと。ゆえに二人の確約書も血判も要らない、第一も二もないとした。
(今に残る大槻玄沢の「載書、門人姓名簿」の中に、後に芝蘭堂の四天王とも評される橋本宗吉、山村才助の名は見られない)
月も末、四カ月も経って初めてに平秩東作殿が亡くなられたと耳にした(四月三日没、江戸の市谷、慶京寺に埋葬)。
松本様(勘定奉行、松本伊豆守秀持)やその配下にあった土山様(土山宗次郎、勘定組頭)の説得があったとお聞きしたが、よくぞ五十九(歳)の年齢で蝦夷地に行かれたものだ。
(上野の山で蜀山人(太田南畝。狂歌の名人)等の見送りを受けたと記録されている)
また、田沼意次殿追放の後、公金横領の疑いで追われる身となった土山様を武蔵野の山口観音(現、埼玉県所沢市上山口)に匿ったとて一時捕縛されもした平秩殿だ。だけど、吾には(平賀)源内先生の遺体を最初に引き取った方として強く記憶に残る。
今日の瓦版は平秩殿の死を報じるだけでなく、時の流れをも感じさせるものだ。
南無阿弥陀仏か南無妙法蓮華経か、南無釈迦牟尼仏か、彼の宗派も分らず三つの念仏を心で唱えた。