将軍家の婚儀がどのように行われるのか知らぬが、この席は今の先生を映してお祝いに駆けつける方々もまた各界各層多士済々だ。
花婿花嫁を前に、華やかでもあり賑やかな祝いの席だ。広いお屋敷も今日ばかりは狭く感じる。
島津侯(島津重豪)が隠居(天明七年一月)し松村家にどのような仔細が生じたのか分からんが、薩摩に帰った松栄(松村松栄)に代わって新しく書生になった者だろう。頂戴した祝儀袋を片手に筆記の受付に、並ぶ皆々を捌くとて容易ではなかろう。
一緒になってそれを手伝う玄良(弟、大槻陽助)の姿も見える。
吾は酒の飲み方も少しは覚えた。人様に盃ならぬ茶碗酒を奨められても今は自分が分からなくなるほどには飲まぬ。何時かの其馨(有阪其馨)さんの教えのとおり、患者は何時に来るか分からぬ、痛い、痒いの体調不良があるから診て下さいと来る、酒臭い顔で診療に当たれぬ。その教えに倣って今は酒を可成り控えておる。
寿ぎの屏風を後ろにした花嫁花婿の晴れ姿を見れば、改めて過ぎ去ったこの十年に思いが行く。あの片田舎から出て来る時のなよなよした頼りない由甫(伯元、士業)はもう居ない。貯えた顎髭がそれを語っている。
吾と共に十年。共に語り、泣き、苦労もした。また妬みもしたが由甫の晴れ姿に吾も嬉しい限りだ。涙も出る。
田舎も何かと多忙とかで亮策さん(三代目建部清庵、由水)の姿がこの席に無いのが残念だ。送り出してくれた先の先生(二代目建部清庵、由正、故人)にも見てもらいたかった姿だ。
宴もたけなわを過ぎて、先生に別室に呼び出された。
「山村才助の方は其方の塾にと、相手も了解した。
何やら子細があるらしく、其方の所に顔を出すのが遅れると言ってきた。
また、小石殿からの状でも、其方の話からも有った橋本宗吉だが、三月半ばに大坂を発ち末に江戸に来るとか。住まいの方はどうにか(確保)出来たかの」
「はい。山村殿の事は了解しました。
また、橋本殿が何時に来ても良い様にと、来月に女子の使用人二人に四、五カ月、一つ部屋で我慢してもらうことにしました。何分にも狭い家とて吾に出来るのはそれが一杯、一杯です」
「それじゃ。もし良かったら、楼の方に(天真楼の寄宿舎))空きもあるでの・・。如何じゃ」
「ご心配頂き、有難うございます。されど、滞在の期間が凡そ四、五カ月とも聞いておりますれば、また朝夕の食事のこともございますれば吾の方で対処したいと思います」
弥生(三月)も三日。雛の祭りと家族は言うものの、吾が家に娘子はおらぬ。
久方ぶりに工藤様の所に寄れば、二女、しず子殿が去年の暮れに津軽藩の家臣、雨森権市殿と祝言を挙げ嫁いで行ったと聞く。
また、長女あや子殿も花(桜花)の咲く間のこの春に、小浜藩酒井家の藩士の嫁になると工藤殿は恵比須顔だ。
これから嫁ぐとあれば、工藤殿に散々お世話になってきた今までの事もある。あや子殿のご祝儀をはずまねばなるまい。
「色々とあったが、今、家を建てておっての。狭い家になるが己の家なれば良しと考えねばと思っておる。
五月に日本橋も南、数寄屋町に引っ越す。国学者で歌人の三島自寛殿が土地じゃ。
三島殿を知ってるか?、そこが吾の終の棲家ともなるだろう」
最後のお言葉にドキッとした。
「三島殿はお聞きしたこともございますが、何を申される。家屋敷が整うは目出度きことにござります。
新しい家にて、この先、工藤家の隆盛をお祈りいたします。引越しの日が決まればご連絡下され、手伝いに来もしましょう」
「忝い。有難う。何、妻もおれば源四郎もおる。少ない荷物に人手は大丈夫じゃ。
ところで、芝蘭堂の方は如何じゃ。
塾でも何でも己が主人として経営の矢面に立つと、あれこれ思わぬことに会おう」
「はい、生活のためにも今に塾生を増やさんと思っても居りますが、玄白先生始め皆様にご心配頂いているところでございます。
間もなくに大坂から橋本宗吉なる者が参ります。小石(元俊)殿のご紹介でございます。
また、先生の紹介で土浦藩の山村才助殿、今に江戸屋敷(土浦藩江戸屋敷、深川扇橋(現・東京都江東区))に在れば、通っていただく二十歳そこそこの若者でございます」
「山村才助だと?。あの「日本詩記」の校訂をした若者か?」
「日本詩記?・・・吾は知りませんが、工藤様はご存じで・・」
「儒学者の市川寛斎が古典等から詩文を集めて出版したのが「日本詩記」よ。
その校訂をしたのが山村才助、土浦藩。寛斎の甥とか聞いておる。
良沢から十七歳と聞いて驚いたのが二、三年前よ。
寛斎は良沢(前野良沢)や玄白(杉田玄白)の友人じゃ」