三 消息

 間もなくに師走の声を聴くようになる。久しぶりに浜町の先生宅にお寄りすると、弘前藩の桐山(きりやま)正哲(しょうてつ)殿が同藩の近習医になったとお聞きした。年齢は確か三十四、五(歳)だ。解体新書の翻訳も出来上がる頃に先生の所に顔を出すようになった御仁と聞いている。先生の交際範囲の広いのにも、得る情報の早いのにも改めて驚く。

 驚くと言えば江漢殿(司馬江漢)の消息もだ。先生宛の状だったのかどうか聞かなんだが、十月十日に長崎へ着いたらしい。吾がお世話になった稲部半蔵殿方に滞在しているとかで、松十郎(稲部松十郎)の名も出た。

 吉雄先生(吉雄耕牛)の名もお聞きした。懐かしくもあるが、吉雄先生が妾に産ませた四、五歳になる子(後の吉雄権之助、シーボルトの通訳を務める。本木(もとき)正栄(まさひで)等と共に我が国最初の英和辞典の訳編等に加わった)が阿蘭陀語を達者に口にするのに驚いたと書いて来たと語る。

 いつまで世話になるのか、幼子の事に触れるのは良いけれど、一言、余計なことを書いて来もしたなと思わないでもない。

 工藤様の所にお寄りしたら、嬉しくもある情報に小躍りしたくもなった。あの関太郎吉が松平治郷侯のところに世話になるのが本決まり、近々、江戸の本場所にも登場することになると語る。

 雲州ゆかりの四股名、雷電を名乗る、雷電為右衛門となったとお聞きした。治郷侯が、信州にある太郎吉のご両親に金四十両を与えた、太郎吉を四人扶持、侍格として抱えたと言うことに驚きもした。

 ああー惜しい。雷電の生国は信州。仙台にも近ければ谷風と一緒に仙台藩お抱えとなればいいものをと一層のこと工藤様と一緒に嘆いた。

 吾が藩と松江藩(出雲国)とで大分に財政事情が違うなと、これまた同じに口にした。

 

 田舎よりましとはいえ江戸にても寒さが募る。この年も終わるとて、良き年を迎えたいと藩の勘定奉行宛に俸禄の一部をお支払い下されと願いの書を提出した。

 それから、小石(元俊)殿に小田殿(小田亨叔(こうしゅく))の近況を報告せねばと筆を執ることにした。

書かんとするところ諸々を先に箇条書きに整理してみた。

一、兼葭堂の便りでは小石殿もお元気にあられるとか、なによりである

二、解体新書の改訂、翻訳も何とか進んでいる。四苦八苦もしているが吾自身面白くも思う。この間にも刑死した者の観臓の機会 

があった。

三、蘭学階梯が漸くに世に出た。貴殿にもお見せしたい。

四、蘭説夜話(後の蘭説弁惑)二巻は、世に誤って伝わっている阿蘭陀のことどもの誤りを修正したものである。

吾の語るのを元晁(有馬元晁(有馬文仲))が筆記した。印刷に回すゆえ正月にはお見せ出来る。

五、栗山(柴野栗山)先生の抜擢、この上なき慶事だった。

六、この夏、小田殿と蔫録(えんろく)(大槻玄沢の煙草誌)について意見を交わし、その草稿の校訂を手伝っていただいた。

七、去年(天明七年)の冬、田舎に帰り家内等を引き取ってきた。今は母共々安住しているが、材木町の家は手狭に付きこの秋に 

三十間掘四丁目という所に引っ越した。

八、兼葭堂の世話で多羅(たら)(よう)(うみ)椰子(やしお)なる物を見た。面白く思う。

多羅(たら)(よう)は葉に文字が書け、ハガキの語源となった。郵便局の木とも言われる。また、大槻玄沢は本草学の観点から(うみ)椰子(やしお)(椰子)に注目したものと思われる。―筆者)

九、近年、山脇門下の者どもも吾が塾に来るようになっている。

十、真狩殿もお元気か?