六月二十五日、藩の呼び出しに上屋敷を訪ねると、国許(くにもと)からの回答だと吾の勤務の有様を口頭で伝えられた。御用の節のみ出勤して良いと寛大な取り計らいだと語る。

 しかし、その後に番頭殿は、夜勤なしで良いが近習外科医が不足しておるゆえ当分の間、一日おきに出勤にしてくれと言う。江戸に残る藩医の方々と事前に話し合ったのだろう。 

 九月からは国許が言うように御用の節のみで良いと言う。内心渋々も、その色を顔に出さずに了解した。

 七月十七日、久しぶりに先生の所に訪ねると、(石川)玄常先生が正式に一橋(ひとつばし)治済(はるさだ)侯(一橋家第二代当主。十一代徳川将軍、家斉の父)の侍医になられた。栗山(りつざん)先生が幕府から初講義を申し付けられた、明日にも栗山先生宅を訪問して祝詞を述べて来ると語る。

 また、石川大浪殿が二十七歳にして幕府の先手備えである大番の役に付いたと話す。大番は(いくさ)のない世だけど幕府に事があれば馬上にあって(たたかい)(のぞむ)のだと言う。大番は老中支配にあるともお聞きした。

 吾の書籍の挿絵も手掛けてくれる石川殿だけど、もともと旗本の御身である。それも有りうると思うが、ふと、先生は何処から栗山先生のことも、石川殿のことも情報を得ているのだろうと不思議な気もした。

 先生が去年(こぞ)に書き現した後見(のちみ)(ぐさ)を読めば先生が世の中を憂い、ご政道の行方に大いに関心を示していることは分かる。栗山殿や白河公(松平定信)に大いに期待を寄せている。

「世にあわぬ武芸学問、御番衆は断ち、改められねばの」と語る。

 五臓六腑の漢方から今に蘭学、和蘭医術の普及、拡充を求める先生のお言葉だ。阿蘭陀を知り、世界を知り、日本が良くなればとの思いが強くあるのだろう。

 それがために、今の塾生や社中の人々の活動の場が広がることを一層念じている。吾とて先生のお側にありながら一層のこと翻訳に励まねばと思っているのだ。

 先生は後見草を一つの区切りにして、この年から日記(()(さい)日録)を付けだしたとお聞きした。その中身を覗いても見たくなる。

           二 芝蘭堂

 今日の瓦版には凡そ一月(ひとつき)前、七月二十四日、相良公(田沼意次、七十歳)死去とある。一時代が本当に終わったのだなと(まつりごと)に疎い吾でさえ思う。

 そう言えば、栗山先生が家斉公(第十一代将軍、徳川家斉)や老中等に初の講義を行うのは今日(八月二十一日)だなと思い出した。

 

 外宅は許されておるものの、九月になっても御用の節のみの勤務とならない。国許(くにもと)が許したのだとその一件を振り回そうにも、診療所に来る藩士の方々やその家族等の多さを見ればそれを口にすることも出来ない。

 大分に寒さも感じるようになってきた。家の周りの木や庭の、枝も色づき始めている。母上も吉もこのままで十分と言うが、やはり今の所では狭いのだ。 

 良沢先生から幽蘭堂を芝蘭堂に変えたらどうだとお話を頂いてから、凡そ十カ月にもなる。蘭学階梯が世にもしれ、良沢先生の有難い申し出を受けるに今がふさわしい時期だと思う。吾で計画したことだ。家族や使用人を前にして、引っ越す、幽蘭堂の看板を芝蘭堂に改めると宣言した。

 それを聞いたお京が無頓着に、引っ越して広くなるのは良いけれど塾の名を替えれば生徒が来てくれるかしら、幽霊の住むお堂みたいな名より芝蘭堂の方がよほどに良いと言う。

 笑い口を押える母上だ。むっとしもした。芝蘭堂の意味も分かっても居ない癖に何を言うかと思いながらも、陽(陽之助)を相手に目の前で、今度の所でもっともっと一生懸命にABCD(あーべーつえーでー)を勉強しましょうねと語りかける。憎めない気性なのだ。

 三十間堀(現在は埋め立てられて存在しない。現、銀座一丁目辺り)に新しく貸家を見つけた。引越しに慣れない老母も吉も苦情を言うのは仕方がない。

 汐留川も傍にあれば大舟小舟の荷揚げを見られる。河岸地(かがんち)とて潮の匂いが強くなりもした。尾張や紀伊の徳川様の蔵屋敷も見える。

 藩邸に一層近くなった。良沢先生の住む屋敷にも少しは近くなった。医者が足りない、如何(どう)してもというときにはお声をかけて下されと江戸番頭(ばんとう)のご機嫌も取った。されど藩の御給金の支払いは相も変わらず滞っている。

 やむなく、引っ越しの手付金に吾も藩士の方々も加入している()合金(やいきん)(積立共済金)を利用した。